「神の言」列王記上22:6−17 中村吉基

列王記上22:6−17;ヨハネによる福音書5:36−47

待降節から教会では新年を歩んでいます。私たちが過ごしているこの「時」もまた神から与えられたものです。待降節は自分の信仰や行いを省みる「時」です。普段の私たちは神から時を預けられ、時の使い方も任されていると言ってよいでしょう。私たちは忙しくなると神と過ごす時間が短くなります。祈りや黙想することも省略して自分の時間として使ってしまうのです。

ミシェル・クオスト(Michel Quoist,1919-97)というフランス人のカトリック司祭がおられました。彼はたくさんの詩を書きました。一部は日本語でも読むことができます。
その中に「主よ、時間はあります」という題名の詩があります。
そのほんの一部をご紹介します。

さよなら、ごめんね、時間がないので
またくるね、待てないの、時間がないから
この手紙早く書かなきゃあ、時間がないので
お手伝いしたいのですが、時間がないので、
引き受けるわけにはいかんね、時間がないから
考えられない、本が読めない、忙しくて死にそうだ、時間がない
祈りたい、けれど時間がない。

「主よ、時間はあります」という詩ですが、この一節は「時間がない」と嘆いています。そしてこの長い詩はこのような言葉で閉じられます。

主よ、わたしはこよい
あれをする時間、これをする時間がほしいとは言いません。
あなたがわたしにくださった時間の中で
あなたがわたしにせよ、とおっしゃったことを心しずかに行なうことのできる恵みを
ただそれだけを、あなたからいただきたいのです。

(『神に聴くすべを知っているなら』より)

私たちは日常の中で、すぐに時間がないと嘆きます。けれども神が時間を求めるときに、時間がないなどということはないのです。神がお求めになるときにはいつでも私たちはその時間を献げなければいけない。なぜなら「時」は神から預けられたものだからです。

さて、今日の箇所にはアハブという王様が出てきます。
北イスラエル王国の7代目の王でした。この前の20章から続く物語では、隣り合ったアラムという国の王様であるベン・ハダトから戦いを挑まれたこの北イスラエルは2回勝ち得たのです。「聖戦」とされる戦いでした。20章では「主の戦い」と呼ばれています。けれども驚くべき行動に出た北イスラエルのアハブ王でした。神の命令を反故にしてベン・ハダト王に助けの手を伸ばして、協定を結ぶのです。それから三年の時が過ぎました。この間、アラムと北イスラエルには戦いはありませんでした(1節)。

アハブ王は今日の箇所の記述によれば、約400人の預言者を集めて、ラモト・ギレアドに行くべきか、中止するのかを訊ねます。しかしこの預言者たちは、神の言に聴かずに、王様が喜ぶような調子のよいことばかり伝える偽預言者たちでした。彼らはこう言います。
「攻め上ってください。主は、王の手にこれをお渡しになります」(6節後半)。これこそアハブ王が待ち焦がれていた言葉でした。しかしそれは主の言葉ではなかったのです。実はアハブ王には神の言葉に耳を傾けようとする気持ちはこれっぽっちもありませんでした。形式的に預言者たちを集めたに過ぎませんでした。400人もの預言者を集めたのは、彼にとって都合の悪い言葉を排除しようとしたのです。まさに預言者たちは忖度のオンパレードです。

「神の言」に聴くということは積極的に厳しい言葉にも耳を傾けなければならない。自分の方向性とは違うことを神が命じたとしても、それを受け入れなければならないのです。私たちにもまた同じようなことが言えるのではないでしょうか。

ここに南ユダ王国の王、ヨシャファトが登場します。ソロモン王がいなくなったのちに対立していた南ユダ王国と北イスラエル王国の和睦を図り、アハブ王の娘を自分の息子と結婚させることで親類にもなっていた間柄です。
紀元前853年ごろのこととされています。ヨシャファト王がアハブ王を訪ねた時に、ラモト・ギレアドをアラムから奪還する戦いに加わるように要請されたのでした。

ヨシャファト王はこれを聞いて、「ここには、このほかに我々が尋ねることができる主の預言者はいないのですか」(7節)と訊ねます。おそらくこれを耳にしたヨシャファト王は預言者たちの忖度に気づいたのでしょう。もしくは主が仰せになる言ではないという確信を抱いていたのかもしれません。この400人もいる預言者たちが異口同音に王が望んでいるままの言葉を伝えたからです。

アハブ王はヨシャファト王にこのように答えました。8節です。
「もう一人、主の御旨を尋ねることのできる者がいます。しかし、わたしに幸運を預言することがなく、災いばかり預言するので、わたしは彼を憎んでいます。イムラの子、ミカヤという者です」。
アハブ王からすればミカヤは好きではないけれども、なぜなら自分にとって耳障りのいい言葉は何一つ言わない。いけ好かない奴だというのです。しかしヨシャファトはそんなアハブ王をなだめます。そして彼は「ミカヤを急いで連れてくるように」(9節)と宦官(かんがん)に命じます。
正装した2人の王は麦打ち場で預言者に対面します。麦を脱穀する場所は、他よりも一段高くなっていて、王たちが座して、預言者の言葉に聴くのにはふさわしい場所であったと考えられています。

まず王たちの前に出てきたのは、ケナアナの子ツィドキヤでした。しかし彼は鉄の角を作って、「主はこう言われる。これをもってアラムを突き、殲滅(せんめつ)せよ」というのです(11節)。他の預言者たちも皆、同様でした(12節)。

そして、ミカヤが連れてこられました。
使いの者はミカヤにこう言いました。
「いいですか。預言者たちは口をそろえて、王に幸運を告げています。どうかあなたも、彼らと同じように語り、幸運を告げてください。」(13節)。先ほど8節にも出てきたこの「幸運」という言葉は、アハブ王が、敵国に攻め入ることと勝利することを意味します。
その時ミカヤはこのように語りました。
14、15節を一緒に読んでみましょう。
ミカヤは、「主は生きておられる。主がわたしに言われる事をわたしは告げる」と言って、王のもとに来た。王が、「ミカヤよ、我々はラモト・ギレアドに行って戦いを挑むべきか、それとも控えるべきか、どちらだ」と問うと、彼は、「攻め上って勝利を得てください。主は敵を王の手にお渡しになります」と答えた。

ミカヤも他の預言者たちと同じように語ったのです。
その続きにはこのように記されてあります。
そこで王(アハブ)が彼に、「何度誓わせたら、お前は主の名によって真実だけをわたしに告げるようになるのか」と言うと、彼は答えた。「イスラエル人が皆、羊飼いのいない羊のように山々に散っているのをわたしは見ました。主は、『彼らには主人がいない。彼らをそれぞれ自分の家に無事に帰らせよ』と言われました。」
これは、アハブ王がアラムとの戦争に負け、死を迎えるということでした。
今日の箇所はここで終わっていますが、このあとそれを聞いたアハブ王はヨシァファト王に、ミカヤの預言はでたらめであって、400人の預言者たちの言葉の方を信じるべきだというのです。つまり、先ほども申しましたようにアハブ王はヨシャファト王と一緒に連合軍を組んでアラムと戦ってほしいのだと願っています。

アハブ王は何が何でも、自分の意思を通そうとしました。そこに神の御心はありませんでした。耳障りのよくない、つまり都合の悪い言葉は徹底的に排除しました。今、世界の指導者を見るときにも「強さ」を前面に掲げて力のない人たちを傷つけ、切り捨てていく現実があります。今日、待降節第2主日は「平和」の主日です。

私は数日前、京都の大学で講演させていただく機会があり、その後、神戸に足を伸ばして、神戸の賀川記念館・神戸イエス団教会で行われた「平和祈祷会」に出席して参りました。かつて賀川豊彦牧師が住んだ神戸のスラムに賀川記念館はありまして、宣教と社会奉仕活動が今も続けられています。1941年、賀川とその当時インドに宣教師として派遣されていたスタンレー・ジョーンズというアメリカ人のメソジスト教会の牧師が、太平洋を挟んで戦争回避を願い、共に1週間、日本とアメリカで徹夜祈祷をしたという記録が残されています。しかし、その年の12月8日ついに日本帝国軍の真珠湾攻撃により太平洋戦争が開戦してしまいました。スタンレー・ジョーンズは戦後、「アシュラム」という祈りの運動を開始して、来日されたこともあります。日米の平和のために祈り、アメリカ大統領に進言をしたり、人種差別撤廃などの活動のために世界巡りました。そこで2011年から滋賀県近江八幡にあるアシュラム・センターと神戸の賀川記念館がこの2人の徹夜祈祷を記念して、毎年12月8日に「平和祈祷会」を合同で開いているのです。

今年の祈祷会ではミャンマーで宣教を行なっている日本基督教団の若い牧師が宣教報告を兼ねた説教をしてくださいました。教会も支援も何もないところのある民族の村に単身入り、そして今軍事政権の圧政が続いているわけですが、それにも余波も受けつつ、言葉も何にもわからない村で危険を顧みず宣教活動を続けておられるという証しに驚きを隠さずにはおれませんでした。村人と一緒になって水道施設などを作り、宣教師は村の一員となっていきます。たどたどしい言葉でのコミュニケーションでついに村長と宣教師が心を通わせて、仏教者からキリスト者になったのです。この村の独自の言語には「敬語」がないのだそうです。彼らの言葉で歌う讃美歌はこんな歌詞だそうです。

イエス、お前最高の神な
イエス、おまえ、ぶっ飛んでるわ
最初からいるおまえの名前を賛美する
俺と一緒にいるって凄すぎる

他の宗教から自分の信仰に「改宗」してもらうことにだけに価値があるのではありません。世界の片隅で一人の人が、こうして共に生きて一杯の水を差し出し、一粒の種を蒔き、一本の木を植えるという気が遠くなるような、時間のかかる営み。
私たちならすぐにこう言って根をあげてしまいそうです。

「主よ、時間がありません!」

主イエスがおっしゃった「平和を実現する」(マタイ5:9)営みとは、神の言に真摯に聴いて、神の時に、神の世界に飛び込むことなのです。アハブ王が願った「人の言葉」ではなく、「神の言」を受け入れ、従う、私たちになりましょう。