申命記18:15−20;使徒言行録9:1−19前半
サウロ(後のパウロ)はユダヤ教の指導者であるのと同時に、当時急速に広まって行った主イエスを信じる人びとを迫害していました。迫害するということは、最初のキリスト教徒たちの影響がかなり出ていたからだと言えます。吹けば飛ぶような力の無い集団ならばサウロも目にも留めなかったはずです。このことは現代に生きる私たちに当てはまるのだと思います。目立たずに影響力が無ければ、誰かが皆さんを批判してきたり、いろいろと邪魔をしてくることも無いでしょう。主イエスは「義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである」(マタイ5:10)と言われました。そういう時には「喜びなさい。大いに喜びなさい」(同12)と言われました。だから私たちは落ち込んだり、凹んだりすることはないのです。
けれども、サウロはサウロで信念を持ってキリスト教徒たちをいじめ抜いていました。自分のしていることは「正しい」ことであり、神も喜んでくださるのだと。サウロはエルサレム教会の迫害に成功すると今度はダマスコというところのキリスト教徒たちに迫害の手を伸ばすのです。
今日の箇所はそのダマスコへの旅の途上で起こった不思議な出来事のお話です。サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。
サウロは天からの不思議な主イエスの声を聴きます。「なぜわたしを迫害するのか」。サウロは生前の主イエスに会ったことはありませんでした。ですから「なぜわたしを……」と言われても身に憶えはなかったでしょう。しかし主イエスからすれば、ご自身を信じている者は皆、神の子です。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」(ヨハ15:5)また「あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである」(ルカ10:16)。つまりキリスト教徒をいじめる者は主イエスをいじめているのと同じだというわけです。
さて、サウロは主イエスにこう呼びかけられます。
6節
「起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる」。
この主イエスのみ言葉を聴いて、私たちも軌道修正しなければいけません。サウロはこれまで自分が正しいと思ったことを自分で決定し、自分で行っていました。しかしキリスト教徒は違うのです。神や主イエスがお望みになっておられることを第一にする。それがキリスト教徒の生き方です。日光に行くと「見ざる、聞かざる、言わざる」というのがありますね。三猿(さんざる、さんえん)とは3匹の猿が両手でそれぞれ目・耳・口を隠してい彫刻です。あれは「とかく人間は自分にとって都合の悪いことや相手の欠点を、見たり聞いたり言ったりしがちだが、それらはしないほうがよい」という諺を表現したものだそうですが、逆に私たちは自分の好きなことだけをし、嫌いなことには目を向けず、呼びかけも聞こえないふりをしていないでしょうか。主イエスは本当にその時皆さんを見て、悲しんでおられます。「起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる」。ここには私たちの聖書には訳されていない言葉があるのですが、最初に「さあ!」という言葉が書かれてあるのですね。「さあ! 起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる」。サウロは何が自分の「なすべきこと」なのかこの時、まだ分かっていません。これは神がモーセやエレミヤと言った預言者・指導者を召し出す時に、「わたしがあなたと共にいる」という言葉、主イエスがサウロに掛けた安心の言葉と読むことができます。希望を与えられたのです。自分で何もかも決めるのではない、ただ主イエスに従う者へと変えられたのです。
誤解のないように申しますが、キリスト教徒になるということは、自分が何も考えなくてもいい、力を発揮しなくていいというような、ただただロボットのようになるというわけではないのです。私たちはもしもこんな時に「主イエスだったらどうするだろう」「神だったらどう言われるだろう」ということを心の中心に置きながら、生きて行く。それがキリスト教徒の生き方です。
さて、この不思議な出来事をきっかけにサウロは目が見えなくなったのですが、これは主イエスがこれまでの罰としてサウロに与えたことではなく、彼はまだこの時、旅の途上で起こったことが半信半疑でした。強い力で圧倒されていたわけではなかったのでしょう。それはそうでしょう。つい数日前までキリスト教徒たちをいじめ抜いていたのです。2節にありますが昼も夜もキリスト教徒をやっつけることばかりを考えていて「見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行」しようと考えあぐねていた恐ろしい人物であったわけです。そんなにすんなり主イエスに従ったわけではありませんでした。ですから「目が見えなくなる」ということは、サウロが「頼るものが何も無くなった」と考えていいでしょう。ともかく主イエスのおっしゃるダマスコに行ってみなければ何も分からないという心境だったのです。
さて、今度は10節以下、サウロが向かっていたダマスコにアナニアという主イエスに信じているお弟子さんが住んでおりました。主イエスはアナニアにも現れて、このように言われました。11節以下です。
「立って、『直線通り』と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている。アナニアという人が入って来て自分の上に手を置き、元どおり目が見えるようにしてくれるのを、幻で見たのだ」。
驚いてしまったのはアナニアの方です。既にサウロの悪事をいくつも知っていて、キリスト教徒を迫害するためにこのダマスコに向かっているという情報も得ていたからです。
しかし主イエスは言われました。15節です。
「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である」。
聖書では人間を「器」に譬えて語ることがよくあります。器というのは、湯のみとかお茶碗とか皆さん想像されることでしょう。物を入れる道具のことです。旧約聖書にある表現ですが、最初の人間アダムは土の塵から神によって造られました。神が陶器職人であれば、私たちは粘土のような存在です。神のみ心によって私たちはさまざまな「器」としてその世界の中で役割を持つのです。
主イエスはサウロのような悪事を働いてきた者を「わたしが選んだ器」だと呼ぶのです。大切なのはこの器が金や銀で装飾されているかとか、そういう「見た目」のことではなくて、中に何を入れるかということが肝心なのだと言うのです。もはやここに人間の力は及びません。皆さんも今心も身体もぼろぼろであるとか、過去に失敗を重ねてきたとかそういうことが問題ではない、ということを今日の箇所は私たちに教えてくれます。それは今ここで自分という器に「何を入れて生きて行くのか」ということが大切なのです。
この後、主イエスのみ言葉を受けたアナニアはサウロの滞在先を調べて、彼に会いに行くのです。ただ会いに行ったのではない。主イエスのみ言葉(ご命令)を携えて、この時のアナニアも半信半疑だったかもしれません。サウロに捉えられるかもしれないという不安もあったでしょう。しかしアナニアは一人ではない、主イエスが共にいてくださるという力がみなぎってもいたでしょう。ユダの家に着くとアナニアは初めてサウロに会います。そこでこう言っているのです。17節です。
サウロの上に手を置いて言った。「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです」。初対面のサウロ、あの多くのキリスト教徒を苦しめてきた男に対して、「兄弟」と呼びかけたのでした。それはすべて主イエスが「わたしが選んだ器」だと言われたことを忠実に信じていたからです。アナニアはサウロの頭に手を置いて祈りました。神の不思議な力がサウロを覆って、彼の目は再び見えるようになりました。そしてサウロが洗礼を受けるところでこの物語は終わっています。
今日の箇所では後にパウロと名を改めて大伝道者となったサウロ、そしてアナニアのいう対照的な2人を主イエスが召し出されたという物語です。今日の箇所は比較して読むと面白いのですが、たとえば、4節と10節で、主イエスは「サウロ」「アナニア」とそれぞれの名前を呼ばれます。そうすると5節では「主よ、あなたはどなたですか」、10節では「主よ、ここにおります」と今度は彼らが応答しています。6節と11節では目的が告げられて「起きて町に入れ」、「立って『直線通り』」に行きなさい。そして最後に6節で「そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる」、11節では「今、彼は祈っている」という指示がされるのです。
主イエスは今朝皆さんに呼びかけておられます。皆さん一人ひとりの名前を呼んでおられます。そしてあなたは「わたしが選んだ器」のだと仰せになっておられます。ご自分の使命のために私たちを遣わしたいと願っておられます。私たちが「主イエス、わたしはここにおります」と応答するのを待っておられるのです。