「わたしを思い出してください」ルカ23:35-43 中村吉基

イザヤ書56:1-8;ルカによる福音書23:35-43

主イエスのご生涯を見る時にもっとも大事にされたことは、社会からつまはじきにされ、人間扱いもされず、おまけに「罪人」とするレッテルを貼られている人々との出遇(あ)いでした。そして、この世の中でそのような人々こそが、もっとも神が愛してくださる人々であり、その人々が尊重され、一人ひとりがいきいきと生かされる世界、それこそが主イエスがお教えになった「神の国」でした。

その時、ゴルゴダの丘には3本の十字架が立っていました。悪事を働き死刑宣告を受けた二人と、今日の前の箇所ですが、23章14節のところで総督ピラトが「この男は死刑に当たるようなことは何もしていない」と言ったとされる主イエスの3人がそこに架けられていました。

十字架につけられた罪人の一人が言いました。
我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。
しかし、この方は何も悪いことをしていない(41節)。

同じ死刑執行の場にありながら、ここにいた2人の男たちと主イエスとはそれぞれ違う道を歩いてきました。男たちは、他人の幸せを壊し、悲しみになるようなことをして十字架に架けられたのに、主イエスは、本物の神の愛を伝える喜びの使者として、愛そのものに生きられました。これまで違う場所で、違う境遇で、会うこともなかった主イエスと2人の男たちでした。この男たちは、絶望のふちをさまよっていました。目の前にある自分の死のことしか頭にはなかったことでしょう。しかしこのあと、主イエスを通していのちの道を指し示されることになろうとは予測もつきませんでした。

聖書を読むと、主イエスの指し示す神を信じ、受け入れてきた人々と、真っ向から主イエスの教えに反論し、それを拒んできた人々とがいました。今日の箇所を改めて読んでみると、この主イエスの生涯の終わりの時にも主イエスの教えを受けいれる者とそうでない者とがいたのです。39節をごらんください。「十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。『お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ』」。この口汚い男の言葉は、ファリサイ派や律法学者を彷彿とさせます。これまで自分がしてきたことへの反省がないと言えます。自分の欲望や自分のことだけしか目に入ってこないまったく自己中心的な人間です。今、神の愛を伝える主イエスがすぐそこにおられるのに、まったく心を開くことができませんでした。そしてこの男も間もなく息を引き取ろうとしていました。

今日の箇所にはこの男の罵りだけではありません。この前のところを見てみましょう。35節には、「議員たちも、あざ笑って言った。『他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい』」。「兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。『お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。』イエスの頭の上には、『これはユダヤ人の王』と書いた札も掲げてあった。」

このように記されています。

これらはすべて、イエスを試し、神を冒涜する言葉です。議員も兵士も死刑囚の一人もすべてイエスが神からのメシアであるかどうか、疑っています。根底にあるには皆同じ、メシアはこんなにみすぼらしく弱々しいお方ではないはずだ、という気持ちです。

私は思います。神はなぜこの時。主イエスを助けなかったのでしょうか。神の力で主イエスを十字架から降ろし、敵対者を打ち負かすこともできたはずです。なぜ神は沈黙していたのでしょうか。ここで神の力が顕されれば、ここにいた不信心な人間たちも神の前にひれ伏したことだったでしょう。なぜ神は何もなされなかったのでしょうか……それは強い力でねじ伏せるようなやり方は神の御心ではなかったからです。もしそれで屈服させたならば、私たちは神に操られるロボットのような存在と化してしまいます。主イエスの生涯の終わりまで神と主イエスは愛をもって人々の心に訴えかけました。

かたやもう一人の男はこう言います。40節です。

すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」

彼は主イエスのことを知っていたのでしょうか。そのことについて今日の箇所は告げていません。しかし、この十字架に架けられて彼は即座に主イエスが神の子であることを信じたのでしょう。

「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(42節)と言った。
主イエスは言われました。
あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる(43節)。

この男はもしかしたら生まれてこのかたいいことなんて一つもなかったかもしれません。だから主イエスに願いました。わたしを思い出してください」。闇の中のような人生の道を通ってきたかもしれないのです。そしてこの男の人生の最期には死刑が待ち受けていました。しかし主イエスに出会ったことによってただ、心を入れ替え、自分の犯してきたことを自覚し、神へと方向転換しただけで、救いを得ることができました。福音とはこういうものです。失敗だらけの、罪を犯した人生の私たちにも希望があることを約束されるのです。わたしを思い出してください」。そう願い出た者に神は救いの手を差し伸べてくださいます。

もうひとつ注目したいことがあります。それは主イエスが「この男の過去一切問うことはしなかったということです。また何かをして償わせることもありませんでした。この男はもう十字架上では償いも何もできなかったでしょう。しかし主イエスは過去を責めることなく、新しい喜びを与え、そしてこの男を赦してくださる神へと導きました。私たちもそうです。自分の過去に帰って過ちを修復することはできません。しかし神が与えてくださる「ゆるし」だけが私たちにとっての救いとなるのです。

もう一度43節を読みます。

あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。この「楽園」というのは、ギリシア語でパラデイソスという言葉です。70人(しちじゅうにん)訳聖書という古代のギリシア語訳旧約聖書がありますが、この聖書の創世記2章8節は、エデンの園のことをこのように呼んでいます。神と人とが結ばれて生き、神が人と共に歩んでくださる。人間同士が平和に暮らしている世界。それが「楽園」です。以前この礼拝で、ルカによる福音書においては「今日」と言う言葉がとても重要であることをお話ししたことがありました。私たちは「今日」イエスと一緒に楽園にいるのです。もしも私たちが苦しかったり、悲しかったり、力をなくした状態の中で、神が共にいてくださることに気づいたとき、そこはもう楽園です。私たちが生きている現実が楽園となるのです。

今日から受難週に入ります。私たちの救い主イエスが、十字架に架けられて死の淵に立たされているにも関わらず、「父よ、彼らをお赦しください」と人をゆるされたことを憶えましょう。そして、今日の箇所に導かれて、私たちが行動するのは「自分自身を傷つけた人」を主イエスにならってゆるし、私たちが神のみ前でゆるすのはいったい誰なのか、今日ぜひ考えてみてください。たとえ長い時間がかかってもゆるせるように助けてください、わたしを思い出してください」と神さまにお祈りしてください。神が聖霊を豊かに注いでくださり、必ず皆さんを助けて下さいます。その時、皆さんは「憎しみ」からはじめて解放されるのです。