「イエスはキリスト」ヨハネ1:1-14 中村吉基

イザヤ書52:7-10;ヨハネによる福音書1:1-14

初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 この言は、初めに神と共にあった。

ふと疑問に思うかもしれません。私たちが「ことば」という文字を漢字で書く際には「言」という字に「葉」と2文字で書くはずです。しかしここでは違います。「言」という字、一文字になっています。これは私たちが普段使っている「言葉」とは違うものであることを意味しています。また同時にしかし、これは「ことば」と表現されなければならないものであるという意味の両方が込められているのです。この「言」は原文では「ロゴス」という言葉です。初めて聴いた方がいるかもしれませんが、英語で神学のことを「セオロジー」と言います。生物学のことを「バイオロジー」、社会学を「ソシオロジー」とお聞きになったことがあるでしょう。つまり「○○学」とか「○○論」という時に使う-logyという言葉が付いていますが、その元になった言葉がギリシア語の「ロゴス」という言葉なのです。

ではヨハネの言う「言」とは何でしょうか。冒頭の1,2節の4つの言葉を手掛かりに読んでみましょう。まず、

1.「初めに言があった」。

すべてのものの初めから「言」は存在していました。目に見えないものではなく、目に見える存在として、それも人格を持った存在としておられたということです。江戸時代のまだキリシタン禁制令のあった頃、ひそかに中国から日本の開国を待っていた宣教師がいました。ギュツラフという人です。このギュツラフはすでに聖書の日本語訳に着手していました。そこにはこう訳されていました。「ハジマリニ カシコイモノ ゴザル」。一生懸命知恵を絞って「ロゴス」を訳したのでしょう。「カシコイモノ」とは人格を持ったという意味が込められています。

2.「言は神と共にあった」。

この「言」は(初めから)「神と共にあった」存在でした。「初めから」です。つまり天地創造よりも前から「神と共にあった」のです。

3.「言は神であった」。

この「言」は神と等しいものであったとここでは言っています。「言」と神は一体であり、ニケア信条(『讃美歌21』93-4-2)によれば「父と同質であって」とイエス・キリストについて告白されています。

4.「この言は、初めに神と共にあった」。

この「言」は神が天地創造された時にもそれにかかわっておられた。ということを言っています。

この「言」とは救い主キリストを表わしています。「言」というところを「キリスト」に置き換えて読むことができます。

初めにキリストがあった。キリストは神と共にあった。キリストは神であった。 このキリストは、初めに神と共にあった。

では2000年前にお生まれになったキリストが、天地創造の際にも共におられたというのはどういうことでしょうか。

確かに神は2000年前にイエス・キリストに人間のかたちをとらせ、この世界にお送りくださいました。けれどもキリストはそれよりはるか以前から神のみもとにおられたということをヨハネ福音書は伝えています。そして神が天地創造された時にもそれに関わっておられたというのです。そのことが3節以下に記されてあります。

万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

「言の内に命があった」というところを岩波書店版の聖書では「彼において生じたことは生命であり」と訳されています。つまりキリストはいのちを創造されたというのです。もう少し言うならばすべてのいのちの源はキリストなのだと言っています。人間において一番大切なものはいのちです。人間はiPS細胞を作れるところまで来たかもしれませんが、それでもいのちのコントロールは神にしかできないわざです。そしてこのいのちこそが「人間を照らす光」であるとヨハネは言うのです。

そして「光は暗闇の中で」「光と闇」それは昔も今も変わることなく存在しています。自然現象のことだけではありません。私たちの人生の道にも光と闇が交互に訪れることを避けることはできません。私たちはできれば闇の中にいることを避けたいと思うことでしょう。しかし人生に闇がなければ、光の大きさ、有り難みを知ることはできないでしょう。神は闇も創造されたのです。けれどもキリストの光は何よりも強く、何よりも明るい光でした。私たちの聖書では「暗闇は光を理解しなかった」と訳されていますが、先ほど引用した岩波書店版の聖書にはもう少しわかりやすく訳しています。

「闇はこの光を阻止できなかった」。

今日の箇所でもう一つ大切なところがあります。

それは終わりの14節です。

言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

「言」はキリストのことであると申し上げました。「父の独り子」というのは神の御子という意味です。「言は肉となった」と聴くとわかりにくく感じますが、神の御子が人間になったということです。だったら最初からそういう風にわかりやすく書いてくれればいいものに……と思う方があるかもしれません。でもヨハネ福音書がそのように書かずに「肉」と記しているには理由があるのです。

「肉」というのは、キリストが人間のかたちをとって現れた神であるということと同時に、私たちと同じ「肉」を持った存在としてお生まれになってくださった、ということも表わしています。私たち人間がさまざまなものを神から与えられて兼ね備えています。その中には相反するようなものも持っています。たとえば「若さと老い」「健康や病気」「美しさと醜さ」「強さと弱さ」「喜びと悲しみ」などです。そのほかにも性格、個性、セクシュアリティなどをヨハネ福音書は一言で「肉」と表現しているのです。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」というのはこの「わたし」という一個人に――皆さん一人ひとりのことです――キリストが同化してくださった。「わたし」の中にキリストがお生まれになった。つまり神が皆さんの肉となった、ということです。皆さんが仕事で疲れていたり、落ち込んでいたり、反対に喜んでいたり、嬉しくなった時、どのような場面にも神は皆さんと共にいるということなのです。教会では「受肉」という言葉を使います。神の御子主イエスが、私たちと同じ肉体をもってクリスマスに生まれてくださった。神が人間となった出来事を「受肉」と言います。

そしてなぜ神が受肉されたのか、それは人間(私たちも含めてです)その人間の罪をゆるすために、神はイエス・キリストとなられて私たちの間に住まわれたのです。「イエス・キリスト」というのは世界で一番短い、でも立派な信仰告白です。これは「イエスはキリストです」と告白しているのです。キリストとは救い主・メシアとも言いますが、その昔、王などが任職されるときに祭司によって油を注がれる儀式を受けましたが、「油注がれたもの」という意味を持っています。最初の主イエスの弟子(信徒)になった人たちは主イエスこそ永い間待ち焦がれていたキリストであると確信しました。ですから「イエスはキリスト」「イエスこそキリスト」という意味を込めてイエス・キリストと呼んだのです。そしてその呼び名はそれから2000年経った現代の私たちにも伝えられています。今日はイエスをキリストとして迎えるクリスマスです。皆さんの心には主イエスをお迎えする余地はあるでしょうか。心から主イエスをキリストとしてお迎えしたいと思うのです。