イザヤ書7:10-16;マタイによる福音書1:18-25
毎週の礼拝でマタイによる福音書から聴き続けています。今日の箇所は、マタイによる福音書が伝える、イエス・キリストの誕生の記事です。しかし、ここに主イエスは登場しません。マタイの描くクリスマスの記事は、ヨセフに光を当てて語りはじめられます。クリスマスの物語の中で、ヨセフの存在はあまり脚光を浴びたものとは言えないでしょう。もちろんクリスマスはイエスの誕生が中心ですから、イエスや母マリアのほうにスポットを当て、ヨセフはかたわらにいる存在としてイメージされることが多いでしょう。
今日の箇所では、マリアと婚約をしていたヨセフがそれを聞いて動転するという場面です。二人の婚約は、ルカによる福音書によれば〈いいなずけ〉(1:27)とされています。これは結婚の第一段階で通常は12,3歳ごろに約束がされていました。ヨセフはまだ、マリアの懐妊が聖霊によるものであることを知りませんでした。そこで19節「ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。」とあります。ヨセフはマリアとの婚約を解消しようとしました。
ヨセフは「正しい人」だと福音書は告げています。彼はとても信仰深く、また、誰に対しても愛をもって接することのできる人だったでしょう。神への律法に忠実であろうとして、マリアのおなかの子がヨセフ以外の人との間に宿ったものであるならば、マリアは石打ちの刑に処せられるのです。マリアのことを思いやれば、そのようにするわけにもいかず、〈表ざたにせず・・・・・・ひそかに〉婚約の解消をしようとしました。しかし、当時の規定では婚約解消にも2人の証人が必要でしたから、完全な秘密裏のうちにできることではなかったのです。神への愛とマリアへの愛――この二つのはざまでヨセフの気持ちは揺れ動き、またどうすることもできずに悩んだことでしょう。
マリアと縁を切る決断をしたヨセフに「天使」が夢の中であらわれます。天使はいったい何をする存在でしょうか? 聖書のどんなところに天使が出てくるでしょうか? また、天使が登場する時は、決まってどんな時なのでしょうか? それはは「神の大いなるみ業がなされる時」です。天使はヨセフに、これらすべてのことは聖霊(神のご意志)によるものであるので、恐れずに彼女を受け入れるように告げます。20節からのところです。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」天使はさらに言葉を付け加えています。生まれる男の子はイエスと名付けること、そして、このイエスが人々を罪から救う者となると言うのです。イエスという名の意味は「神は救う」という意味です。しかしながら天使の言葉は聖霊によってマリアの胎内から生まれるイエスは正に名の通り人類にとっての「神の救い」そのものとなるのです。
今日の箇所の20節のところでヨセフが、マリアのことを思い巡らしているのです。「このように考えていると」という言葉はルカ1章29節の「考え込んだ」という言葉と同じ言葉です。つまりマリアが天使から受胎告知を受けて「戸惑い」「考え込」んで、天使のお告げの言葉を受け入れたあとで、ヨセフも同じように「考え込んで」「思いめぐらして」……この神がイエスを通して人間を救おうとされる壮大なご計画を受け入れるのです。ヨセフはなぜこの時、思いめぐらしていたのかといえば、さきほどもお話しした当時の律法の問題です。ヨセフが律法を正しく守れば、マリアが死刑に処せられるし、婚約を解消すれば、それには2人の証人が必要となり、マリアの懐妊が明るみに出てしまうのです。ヨセフも窮地にありました。ですから「考え込んで」いたのです。しかし、夢において天使はヨセフにお告げになって、そしてヨセフも神のご計画を受け入れられたのです。マリアの決断もヨセフのそれもまったく偶然のことではありません。常に普段から神への信頼を篤くしていたこの若い二人だからこそ決断できたわけでしたし、神の大きな計画の中にこのマリアとヨセフも選ばれていたのです。
こうして天使のお告げを受けたヨセフはその眠りから覚め、天使のお言葉どおりにマリアを妻として迎え入れました。ヨセフは天使を通して語られた神の言葉に従いました。神は神ご自身が起こされようとする出来事を心から受け入れ、神の御心を信じる人を大切にされます。ここでヨセフが神の言葉を受け入れなかったなら、神が人間を救おうとされる計画はまだまだ先へと延びていたかもしれません。しかし、ヨセフの決断が、あるいは彼の素直な信仰のおかげで、私たちは主イエスをインマヌエルと呼ぶことができるのです。
このヨセフに告げられた天使の言葉は、今これを聴いている私たちにも語られています。主イエスはいつも私たちと共にいてくださいます。マタイによる福音書のいちばん最後の言葉は(28章20節)十字架に架かり、死ののちに復活した主イエスの言葉です。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。考えてみればマタイによる福音は初めに今日の福音(インマヌエル)から始まり、終わりもインマヌエル(いつもあなたがたと共にいる)で閉じられています。
ちなみにこの待降節から礼拝で聞き続けているマタイによる福音書には「イエス」のみ名が150回も出てきます。他の福音書によりもはるかに多いのです!「神の救い」である主イエスは初めから終わりまで、いつも私たちと共にいてくださいます。私たちの教会は、このインマヌエルの神を一人でも多くの人に伝えたいという希望があります。「あなたはひとりじゃない、主イエスが一緒に歩んでくださる!」ということをまず私たちは喜び合わなければなりません。私たちがそのことを喜んでいないならば、信じていないならば福音の言葉は決して伝わることはないのです。
主イエスが生まれた時代は、今の時代よりも争いがあり、貧困があり……一人の子どもの小さないのちが誕生するのにしてもさまざまな困難がありました。しかし、ヨセフもマリアもこの神から授かった子どものいのちを喜んで受け入れたのです。たくさんの困難を乗り越えて神の御子イエスはお生まれになったことを今朝心に刻みましょう。待降節の旅が終わろうとしています。いよいよ来週はクリスマスの祝いをします。心からの神への感謝と喜びをもって、救い主イエスをお迎えしましょう!