「『自分』からの解放」ルカ16:1-13 中村吉基

アモス書8:4-7;ルカによる福音書16:1-13

今日の箇所、「不正な管理人」のたとえ話は、主イエスのなさったたとえ話の中でも、特段理解しにくいものだと言われています。この話を理解していくためのキーポイントは1節の最初「弟子たちに」語られたものであることを念頭に置くことです。主イエスの弟子たちは、すべてを捨てて従ってきていましたが、そのためどことなく自慢げな、誇らしげなところがありました。

しかし、主イエスの眼から見れば、この弟子たちには、何かが物足りない、何かが抜け落ちている、そのような気持ちでおられたのです。その一つは、危機意識が欠けている。いわば危機管理の欠如でしょうか。とは言っても設備やハード面のことではなくて、弟子たちの人間性そのものが、主イエスにそう問われていました。主イエスはこの時すでに、ご自分が十字架において亡くなられることを悟っておられました。しかし、その緊迫した様子は、すぐそばで生活をしていた弟子たちにはまったくといっていいほど伝わっていませんでした。今、この時危機的な状況にあることを認識していない弟子たちに主イエスは歯がゆい思いをなさっておられました。そこでそのような弟子たちに目を覚ましてほしい、そのような思いでこのたとえ話を語ったのです。

さて、このたとえ話の主人公は「管理人」と呼ばれる人です。いわば番頭さんのような人です。大金持ちの主人の大切な財産を管理する仕事をしていた人です。あるとき自分の財産が無駄に使われている(あるいは彼が主人の財産を使いこんでいたかもしれません……)ことを知った主人は、突然管理人の「解雇」を言い渡します。予期もしないで職を失い、路頭に放り出されたりすることは誰にとっても辛いことです。若い時であればともかく、年を重ねてからの解雇やそれからの職探しは想像を絶するものがあります。

今、コロナ禍にある世界中で若い人から熟年の方まで多くの人が職を失っていますが、それぞれにいろいろな限界を感じて居られることと思います。さて、ピンチに追いこまれた彼の場合はどうだったかというと、なりふり構わずに考えあぐねます。生き残るために考え抜いて、彼が考えたことはとても汚い手口のやり方でした。

3,4節を読んでみましょう。

「管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ』」。

そう思って主人の借りのある者たちをひとりひとり自分のところに呼んで、彼は主人名義になっている借用書を主人にも相談せずに、借りている人がその借財から楽になるように書き換えてしまうのです。たとえば6節の「油100バトス」は半分の「50バトスに」、7節の「小麦100コロス」は「80コロス」という具合です。この場合の単位は地域や時代によって異なりますので、日本風に言えば、「油を100樽」「小麦を100袋」と考えてくださって結構です。こうして自分と顔見知りであったであろう、自分の主人から借財している人に、この男は恩義を売り、失業したあともこの人たちに助けてもらいながら生き延びていくことをあてこんで、ちゃっかりと手を打つのです。

ところが意外や意外です。8節をご覧ください。主人は彼の不正を怒るどころか、「抜け目ないやり方」だと言ってほめたのです! その大胆さや巧妙さに対してです。最初にこのたとえ話は不可解だと言いましたが、それが誰もが、この主人の態度をすぐには理解できないのではないかと思うのです。

主イエスはこの話を終えてから、先ほどと同じ8節でこの世の子らの賢いふるまいをほめられます。そして弟子たちにも「不正にまみれた富」で友達を作りなさいと言われます。ここでは主イエスが不正を大目に見ていると思ってしまいがちですが、そうではなく、この管理人が危機的な状況の中でとった機敏な対応をほめているのであり、私たちが神の国の一員となるために、賢くふるまわなければならないと教えられているのです。主イエスは弟子たちやすべての人々がこの世の中で危機的な状況に立たされているということを自覚したならば、一日一日の歩みがもっと真剣になり、その生き方も緊張感を持ったものになるだろうと期待したのです。

では主イエスが言われた9節の「不正にまみれた富で友達を作りなさい」とはどういうことでしょうか。富自体は不正なものではありません。私たちはお金がなければ生活することができないからです。しかしそれを理解するために、今日私たちが旧約聖書から聴いた(アモス書8:4-7)のアモスの預言は富には人間を陥れ、堕落させ、道を踏み誤らせる魔力があることを語っています。アモスは紀元前8世紀、北イスラエル王国で活躍した預言者です。貧しい人々から不正に搾取し、私服を肥やしていた金持ちをアモスは厳しく糾弾しました。彼らはどうすれば利益を増やすことができるかで頭の中はいっぱいでした。そして弱い人々に対しては彼らを少しも顧みようとはしませんでした。彼らは富を所有する欲望にとりつかれていました。富にはこういう一面もあることを私たちは肝に銘じなければなりません。

今、私たちの国では、商品の欠陥を隠すことを会社ぐるみで行った事件や、食品の表示を偽って消費者に提示していたような事件が後をたちません。思えばこれは富に目が眩んだ人たちがすることです。私たちは「富に仕える」ために手段を選ばない社会と背中あわせに生きているといえます。

主イエスはこのように言われました。「あなたがたは神と富とに仕えることはできない」(13節)。私たち光の子は富に仕えてはなりません。富の奴隷になってはいけないことを主イエスは言われたのです。そうではなく、私たちは神に仕えなければならないのです! 

そして私たちは富を用いて他者と自分たちの生きている社会に奉仕し、貧しく弱くされている人々の友となり、主イエスが示してくださった愛を実践するようにと今日のたとえ話は招いています。私たちに与えられている富はどのように用いるのでしょうか。私たちが富を正しく用いるところに、一人の人間が人間らしく生きる場を回復することでしょう。

U牧師という方がおられました。第2次大戦中に海軍大尉を務めていた戦後すぐに真珠の養殖業を始められました。その仕事は成功して、真珠の流通に関わり、大きな利益を得たそうです。しかし、あるとき、「金は儲かるが、このような仕事は人が一生やる仕事ではない」と思っていた矢先に工場が全焼してしまいました。これが転職の潮時だと一緒に働いていた人に後は任せて、辞めてしまいました。そののち彼は独学で牧師の道を選びます。

私たちはしがらみや身体に取り付いたものに足下をとらわれてなかなか動きだすことが困難になっていないでしょうか。執着心や欲望の数々、なかなかそれを捨てることができません。そこで主イエスは言われます。「二人の主人に仕えることはできない」(13節)と。私たちは目先の利益や欲望のために魂を売り渡してしまってはならないのです。そして真実に重要なものを軽んじてはいけないでしょう。大きな神の恵みや深いみこころを信じて生きるために視野の狭い、自己中心的な判断をしてしまいがちな自分に本当に目覚めた心で抵抗していくことが求められています。

パウロが「フィリピの信徒への手紙」にこのように書いています。

「わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように」(フィリピ1:9‐10節前半)。

私たちが今、この時代に生きるものとして祈り求めるべきことは、ラインホールド・ニーバーの祈りです。セレニティの祈り、平静の祈りと呼ばれるものです。そこにはこうあります。

神よ/変えることのできるものについて、/それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。/変えることのできないものについては、/それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。/そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、/識別する知恵を与えたまえ。(大木英夫訳)

けれども、私たちが「自分」の力だけで、それを成し遂げるにはあまりにも無力です。管理人が他人の力を借りて救いの道を切り開いていったように、私たちも私たちに手を差し伸べてくださるお方の力を借りなければならないのです。そのお方こそイエス・キリストです。私たちが今日という一日を生きていくための力の源はイエス・キリストから来ます。十字架にかかり、死に打ち勝ち、復活をされたキリストに私たちが信頼を寄せる時におのずと救いの道が開かれてきます。