「本当の豊かさとは?」ルカ12:13-21 中村吉基

コヘレトの言葉1:2,12-14,2:18-23;ルカによる福音書12:13-21

ユダヤ教の指導者ラビは、単にその教えを伝えることだけでなく、人々の生活の中で起こるさまざまなアクシデントやトラブルの相談にものっていました。今日の箇所には自分にも遺産を分配してもらえるようにと、主イエスに調停してくださいと願い出てきます。しかし、主イエスはこれを拒み、どんな欲望にも注意を払い、警戒するように教えられています。そして一つのたとえ話を話されました。私は、主イエスは「天晴れ」だと思います。見事だと思うのです。なぜなら相談されたことを逆に、神の国の福音を伝える良い材料に変えてしまわれるからです。

私たちは長々と待つのが苦手です。銀行のATM、スーパーのレジ、病院の待合室などなど。そこにいると「我先に、我先に」という思いがついつい出てきてしまいます。ましてや相談ごともそうです。なぜでしょうか。心配になればなるほど、結果を急ごうとします。人の気持ちなどお構いなしです。この時、主イエスに訴え出た人も同じでした。イスラエルではたいへん自然の状況が悪い中で人々は農作などをしていましたから、毎年の収穫量にはばらつきがあり、その中で暮らしていくということは並大抵のことではありませんでした。ですから、遺産相続も彼らにとっては重大なことでした。そして兄弟と争っているこの人に対して主イエスはいわゆる「金持ちのたとえ」と呼ばれる話をするのです。

イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが……」(16節以下)。

私たちの人生の中で、この金持ちと同様に「どうしよう」と思い悩むことが繰り返し、繰り返し起こってきます。途方に暮れるようなこと、小さな日常生活の中での決断から人生を左右することまで私たち人間はいつも「どうしよう」「どうしよう」と悩んでいます。この金持ちは、ある豊作の年に「作物をしまっておく場所がない!」ことに悩みました。とても贅沢だと思わないでしょうか。私たちはどちらかと言えば物が満たされなくて悩んでいるのに、豊作の上に悩んでいるからです。

今、ウクライナの状況を見ていると物資が不足します。そうすると人々は途端に不安に陥っています。でも私たちの生活の状況で考えれば、反対に物資が満たされるだけで本当に安心できるのでしょうか。そこに落とし穴があります。持てば持つほど「もっと持ちたい」という欲望に駆られるからです。そしてたくさんの物を持つことで自分を満たし、安定し、何か人よりえらくなったという気さえ起こさせます。

この時の金持ちは、18節以下に記されてあるように 

やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』

今持っている倉を壊してもっと大きなものを建てて、そこに穀物や財産をしまいこもうと考えました。それだけではありません。ひと休みして食べたり、飲んだりして楽しもうとさえ考えました。なんと優雅なことでしょうか。ひと休みしている金持ちを想像すると微笑ましさも感じてきます。

しかし、大きな収穫を得て、まさに人生の絶頂期にあるこの金持ちに、神は「愚かな者よ」(20節)と言われました。なぜでしょうか。
まずこのたとえが語られた状況を注意深く読んでみると、それは「遺産相続」のもめごとのなかで語られたたとえでした。これは2000年前のイスラエルだけではなくて私たちのすぐ近くでもよく聞く話です。お金のことをめぐってそれまで仲の良かったきょうだいや親族がもめるということはよくあることだからです。悲しい話ですけれども、「骨肉の争い」という言葉を私たちはよく耳にするのではないでしょうか。
血縁さえも壊してしまう富への欲望が人間には潜んでいます。この時、仲裁してもらうことを願って主イエスのところにやってきた人に、主はこのたとえを語られました。そこには人間の心の奥底に潜む貪欲な心をえぐり出すことによって、決して物質が、人に安らぎをもたらしたり、平和にするものではないということを言っているのです。
そしてたとえ話の中の金持ちについて、ひじょうに自己中心的であることが指摘されています。このたとえを岩波書店版の新約聖書(佐藤研訳)は16節の途中からこのように訳しています。


「俺はどうしようか。俺には自分の収穫物を入れておくところがない」。そして言った、「俺は自分の倉を壊し、より大きな〔倉〕を建てよう。そしてそこに俺の穀物と財を集めよう。そして俺の魂に言おう、「魂よ、〔これで〕何年分もの、多大な財を持っているわけだ。休め、食え、飲め、喜べ」

と。
つまり「俺の」とか「俺が」と自分のことしか考えていないのです。しかし、神はここで何と言ったのか。愚かな者よ、今夜お前の命は取り上げられる。お前の用意した物は、いったい誰のものになるのか
俺つまり自分のことしか考えられない人に対して、お前すなわち「あなた」と呼びかけられるのです。主イエスはここで自分と物質的なかかわりよりも、わたしとあなたという人間と神の関係性こそが最も私たちの人生の中で大切なことなのだということをこの遺産相続で争っている人に伝えたかったのです。
それは、私たちにも呼びかけられていることでもあります。あなたはあまりにも周りのことにだけ執着し、目を留め、心を奪われていないか。私たちに生きる道を教え、導いてくださるお方の存在を忘れているのではないか?今朝、主イエスは私たちも語られています。

日本人が宗教を求める時、その理由の一つは「苦しみからの脱却」を求めてという理由が挙げられます。新宗教に入信する多くの理由は、貧困、あるいは自身の、家族の病気を癒してほしいという理由も大きな要因です。しかしこのたとえ話では、金持ちが人生の絶頂にある時にこそ「神を求めるように招かれていることに注目したいのです。私たちも「苦しい時の神頼み」ではなく、ふだんの生活の中で神に向き合うことが求められています。順調な中で神と共に生き、祝福を受け、支えられ、生かされるのが私たちの信仰です。
今日、私たちは、本当の豊かさとは何かということを考える必要があります。よくこのように言います。「喜びをだれかと分かち合うと2倍になり、悲しみをだれかと分かち合うと2分の1になる」。みんなが助け合って生きる世界は大切です。特に日本が第二次大戦において加害者となったアジアの人たち、それだけではなく世界中の人たち、その人たちに目を向けるためにはまず自分の最も近くにいる人たちから一緒に助け合って生きることが大切です。たとえそのわざは小さくともそこにかかわった時に私たちは深い充足感や感銘を受けることとなるでしょう。主イエスが私たちに伝えたいことは、本当の豊かさは、自分のために倉をつくって貯め込むことではなく、喜んでだれかに差し出す中に与えられるのだと言っておられます。
今日の箇所の終わりのところです。

「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」(21節)

このみ言葉は2000年前にすでにイエスが言われたものでありながら、今日を生きる私たちにも生き生きと力をもって響いてくるみ言葉です。このみ言葉を心に刻んで、この新しい1週間過ごしましょう。いよいよ明日から平和を祈り、行動する8月に入ります。私たちに今日共に届けられた神のみ言葉が心とからだのすみずみに行き渡りますように祈りましょう。