「感動に突き動かされた教会」 使徒言行録2:1-12 中村吉基

創世記11:1-9,使徒言行録2:1-12

今日私たちはペンテコステの礼拝をささげています。ペンテコステというのは一般ではあまり耳慣れない言葉ですが、教会では2000年前にイエス・キリストの十字架での死、復活と昇天の後に残された弟子たちに聖霊が与えられ、それによって力を与えられた弟子たちが、活発にイエス・キリストの教えを宣べ伝えていったきっかけとなった日として、いわば「教会の誕生日」としてクリスマス、イースターと並んで大切にされている祭日です。ペンテコステという言葉はギリシア語で「第50番目」を意味する言葉です。ユダヤ教の最大の祭りである「過ぎ越しの祭り」から数えて50日目なので「五旬祭」とも呼ばれます。今日の使徒言行録の冒頭に「五旬祭の日が来て……」とあるのはそのためです。教会暦ではイースターから数えて50日目の日です。このペンテコステに聖霊を通して神が何をなさったのかをこの使徒言行録を通して読んでいきたいと思います。

アメリカ聖公会の司祭であったデニス・ベネット (1917−1991)は、ユニークな考察をしています。彼によれば、主イエスが復活された日の夕方、主の弟子たちに新しいいのちが授けられたといいます。その新しいいのちとはいうまでもなく「聖霊」でした。聖霊はそれから弟子たちの中にずっと住んでおられたというのです。そしてその50日後、五旬祭のお祭りの日でありましたが、聖霊は弟子たちの身体から満ち溢れはじめました。

そのことは今日の聖書箇所も伝えています。「一人一人の上にとどまった」(3)。しかしこの日、聖霊の働きは違いました。50日もの間、ずっとそれぞれの弟子たちの中にとどまっていましたが、この日はすぐさま弟子たちの内側から外側へと溢れ始めました。まさに聖霊の力をあらわすギリシア語は「デュナミス」と言います。ダイナマイトの語源になった言葉です。聖霊は爆発的な力をもって五旬祭の朝、働き始めたのです。弟子たちは「感動」しました。私たちは「感動」と言いますと何か心の中でしっとり、ジワーっと味わうようなイメージを持っていますが、感動の意味には「喜び」や「興奮」といったものもあります。ここでは「感動」そのままのことが起きました。まさに聖霊の力を「感」じて「動」きはじめた弟子たちでありました。聖霊に感動し始めた弟子たちは、自分たちが普段使っていた言葉だけではなく、新しい言葉をもって神を賛美し始めました。聖霊の力は弟子たちの舌も制御してお用いになり始めました。

聖霊の力というのは人間を解放します。それぞれが持っていた先入観や「常識」と言われるようなことを打ち砕きました。それだけではありません。身体も新しくされ、活力が注がれたのです。こうして弟子たち一人ひとりがキリストを証言する者たちとして立ち上がった日、それがペンテコステの出来事でした。

しかし他人から見たらおかしな集団にしか見えませんでした。今日の箇所のすぐ後の13節には「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいたのです。単なる酔っぱらい集団にしか見えなかった、それもそうでしょう。まだ朝の9時の出来事だったとこの後の15節ところに記されてありますが、これが最初のキリスト者たち、最初の教会の出発でした。あの田舎者のガリラヤの連中がこの大都会エルサレムで何をしているのか? いろいろな国の言葉でザワザワと、叫んでいるものもいたかもしれません。じっとしていられなくて動きまわっていたものもきっといたでしょう。

この日は五旬祭です。世界各地から敬虔なユダヤ教徒たちがエルサレムの神殿にお参りに帰って来ていたのです。「エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいた」(5)。そこで主イエスの弟子たちが、あらゆる国の言葉で話していました。今日の聖書箇所にはいろいろな地名が出てきます。民衆は、少し上から目線で、ガリラヤという辺境から出てきたイエスの弟子たちを見ていました。弟子たちは義務教育などがない時代ですから、この読み書きもできないと思われていた弟子たちが、いろいろな地域の言葉すなわちここでこの出来事を見物している「インテリ」を自認している民衆たちといっていいかもしれませんが、この人たちの故郷の言葉を上手に話している弟子たちを見て、目をまんまるにせざるを得なかったのです。おそらく弟子たちが学んだはずのない言葉、識別できない言葉をもって主を賛美していたからです!

さてこの出来事はいったい何を表しているのでしょうか?

この21世紀に生きている私たちに何を語っているのでしょうか?

まずこの物語から私たちが知ることは、主イエスが十字架刑で殺されて、失意の中にあって、家の中に引きこもっていた人たちが、聖霊の力を受けて外に出て行き、同じように失意の人生を送ってきた人々に「神の偉大な業」を告げ知らせる者へと変えられていったことが分かります。そしてこのとき、教会の歴史が始まったということです。

そして私たちがここから学ばなければならないことがあります。それは、神は皆さん一人ひとりを子どもとして今この時も愛してくださっていることを知らねばなりません。皆さん一人ひとりもれなく、です。神はこう言っておられます。

「わたしの目にあなたは価高く、貴い」(イザヤ43・4)。

神は皆さんの現状を良く知っておられます。そしてそこにとどまらないで、引きこもらないで立ち上がってほしいと願っておられます。そのために私たちにも聖霊を送ってくださいました。

そして、ペンテコステの日に始まった教会は、「神の偉大な業」を語っていた教会です。その日、神が誕生させた教会には私たちの持っている教会のイメージとはかけ離れているかもしれません。今日の聖書の箇所から導かれて、もう一度私たちの頭の中で、最初の教会を組み立てて行きましょう。まず、教会は「組織」ではない、ということです。それよりも使徒言行録にこのあとにも出てくる、最初のキリスト者たちの共同体は、組織よりも「つながり」を大事にしました。教会は人がたくさんいればいるほどいい教会なのだ、というような風潮がありますが、最初の教会はそうではありませんでした。何人いるのかということよりもそこに「誰かいるのか」ということを大切にした教会だったのです。

ペンテコステの日、弟子たちが多様な言葉で話しました。まるでバラバラに見えるでしょう。しかし、それはすべて神から出たものです。私たちは神にあって、キリストにあって、聖霊にあって一つになることができます。お互いの違いが与えられていることを今日、更に喜びましょう。

派遣と祝福

今も生きておられる神の霊は、根底から私たちを変えてくださいます。
聖霊は私たちの冷たくなった心に情熱を注いで下さり、迷う心に信仰を形作り、頑なな心に愛を与えてくださいます。平和に満ちた聖霊の力があなたがたを包み、あなたがたをゆるし、その恵みがあなたがたを解き放ちますように。
主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりがいつも、またいつまでもあなたがたと共にありますように。アーメン。