廣石望一覧

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「わたしの記念として」Iコリント11:23-26 廣石望

本日の聖書箇所にある「主の晩餐」には何があり、イエスがそこに託した意味は何だろうか?まずこれはイエスが「罪人」と呼ばれる者たちと共に祝った「交わりの食卓」の延長線上である。イエスにとって「神の王国」は宴であり「交わりの食卓」は「神の王国」を先取りするものであった。ではパウロのコリント教会に宛てられた書簡においてはどうなっているのだろうか?冒頭の「私自身が主から受けたことを、君たちに伝えもした」で伝承の受け渡しを示唆し、「君たちがこのパンを食べ、そして杯を飲むごとに」とあるので、定期的に食事式を枠とする礼拝があり、それが「わたしの記念として」、つまり今は死んだイエスの生前のあり方を想起することが目的だったことがわかる。最後の「君たちは主の死を告げ知らせるのだから―彼が来るまで」の一文で昇天しているイエスがやがて審判者として到来する。キリスト教共同体は、主イエスの「死」を告知し続けることになる。イエスの死は暴力的な虐殺の死ではあったが神は共にいた。彼はイエスと共に死の中へと歩み入り、死者たちの中より起こし天高く引き上げ天上の宴の喜びに加えた。やがてイエスは来たり、自分がこの世界すべての現実の規準であることを示すであろう。

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「文字と霊」IIコリント3:3-18 廣石望

パウロはコリントの共同体のことを「インクでなく神の霊で石の版でなく肉の心という板に書かれたキリストの手紙だ」という。いくつかの旧約のモチーフがひかれており、「コリントのキリスト共同体はエレミヤやエゼキエルの預言の成就でありそれはかつて破られたモーセのシナイ契約を超える、神が与えた新しい霊によって「肉の心」として体現される神の民」ということのようである。そして「新しい契約」が「霊」の性格をもつとは、その担い手が肉となった終末論的な共同体であること、私たちが神の究極的な働きが現れる具体的な場であること、「文字は殺す」は神との関係の断絶としての死をもたらすという意味であろう。 パウロが言う「文字vs霊」とはユダヤ教や旧約との対比ではない。出エジプトが伝える「モーセの顔覆い」に見られるモーセの顔が放つ光とキリストの栄光との比較と言える。 私たちは、キリストの栄光を受けて新しい人間へと変貌するために聖書を日々新しく読み、神から託された平和の務めを果たしたい。

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「朽ちないもの」コリントI15:30-53 廣石望

キリスト教は復活のキリストを頭とする「死ねる者たち」と「生ける者たち」の両方から成る共同体である。「蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し」という対比で始まる今日の箇所は、キリストの運命こそがすべての人間の運命にとってモデルないし雛形というパウロの言葉である。近代以降の私たちに他者との命のつながり、ましてや失われた命との交流は可能だろうか?これに対してパウロがもっているイメージは「死者は復活して(/起こされて)朽ちない者とされ、私たちは変えられる」とあるように「変身」である。それ以降も読むと私たちと死者たちの交流が新しく回復されることが含まれる。神の裁きを介して新しく創られ解放される。「朽ちないもの」とは神による和解の達成、それを信じる私たちの死者たちへの連帯、またこの世で傷つけられている小さな命のための祈りである。

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「目を覚ましていなさい」マルコ13:32-37 廣石望

聖書における「世界の終わり」はまさに世界が壊れるというイメージであるがその後に「人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来」て、「選ばれた者を四方から呼び集める」とある。神による救済である。これがいつなのかはわからないので、イエスは「気をつけて、目を覚ましていなさい」と教え、主人がいつ帰ってくるかわからないからしもべはそれに備えておかなければならないというたとえ話をなさる。しっかり準備をしておかなければならないのである。これは自分のためだけの準備ではない。どんなに小さな者の痛みや死も神の前で忘れ去られることはないことを覚え、目を覚まして何が真の平和をもたらものであるかを見分けるためのトレーニングをしなければならない。

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「全世界を手に入れても」マルコ8:31-38 廣石望

ロシアによるウクライナ侵攻や、かつての満州でも巨大な権力の支配欲の暴走である。かつてのイエスの死もローマ帝国による「全世界を手に入れる」ことへの欲望があった。本日の礼拝では、マルコ福音書の受難復活予告を含む段落を手がかりに、弱い者たちの上に避けようもなく降りかかる暴力がどう理解されたのか、私たちに何ができるのかを、ごいっしょに考えたい。

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「新しいエルサレム」黙示録21:1-4.9-14 廣石望

ヨハネの黙示録が書かれたのは、紀元1世紀末、小アジアのエーゲ海沿岸地域。当時現地エリートは皇帝崇拝を利用し富を得ていた。黙示録の著者はそこに鋭い眼差しを向け「新しいエルサレム」という対抗的な神話を描く。地中海世界をすっぽり覆うばかりの立方体という形状、高価な貴金属でできた都市、食料も病の心配もない。また神殿も祭司もなく軍隊もない。住民全員が市民であり、住民全員が市民であり、かつ祭司だ。以上のヴィジョンは、現代の我々の世界とは大きく異なるが、当時の世界も同様にかけはなれていた。しかし黙示録の著者は絶望せず「神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや悲しみも嘆きも労苦もない」という真の世界を夢見た。我々も同様になっていたい。

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「少女よ、起きなさい」マルコ5:21-24a.35-43 廣石望

日本でコロナ禍の影響下で自死した人の数、ウクライナでの戦いなど、死が命をあざ笑っているかのようだ。今日はヤイロの娘の話を手がかりにイエスの命の守り方、復活信仰とは何なのかを考える。 ヤイロスに要請をうけて同行するイエスに次々と邪魔が入る。押し寄せる群衆、出血の止まらない女、そして当の娘の死、人々の嘲笑…しかしイエスはそれを乗り越えただ信じることを命じ、少女に起きなさいと言い、彼女は立ち上がる。現代に生きる我々も、その時代を生きる人々にも理解を超えることであるが、それを通してこの話ではすべてを新しくする「神の王国」の到来を現実化した。 ヨハネ福音書に記されたラザロの復活を読むと、復活信仰とは神の命を与えるイエスへの信頼他ならない。イエスが呼びかける声を聞き、今の世界に神の命から「生きる」ようになるとき、命をあざ笑う死の現実に、今ここで抗えると信じたい。