五旬祭一覧

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「いったい、これは……」使徒2:1-11 中村吉基

復活後のイエスが昇天し40日後の五旬祭の日に、約束通り神によって聖霊が送られた。強い風が吹き、そこにいた人々は“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。当時のエルサレムにいた様々な地域で育ったユダヤ人たちが集まってきて、彼らが自分の故郷の言葉で話しているの見てあっけにとられた。「ことば」とは、歴史、価値観、考え方等「個」が国・民族単位となっていった歴史である。イエスは貧しい家の出身で本などを記したわけでないが、その「ことば」をきけば誰もが神と神の愛がわかる。昇天後途方にくれていた弟子達は強い風と伴に聖霊が降って彼らをいつも支えようとされる神の愛を深く感じた。その後弟子たちがすぐにかわったわけではないが、聖霊降臨によって神が「不可能が可能になること」「共に手を取り合って共存する道」を見せて下さったと感じた。他民族へのヘイトスピーチに見えるように、私たちは知らないものに嫌悪感を持ち、それが憎悪に変わる事もある。しかしペンテコステの日に未知のことばかり起き驚きとまどった弟子たちは、圧倒的な聖霊の働きがあったのか、出来事は無視も拒否もせず宣教の働きを進めた。私たちは主イエスのようにうまく「ことば」を使えないかもしれない。しかしそれでいい。ほかの誰かが向き合うところにこそ神の愛は実現し聖霊の力は働かれる。

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「使徒言行録29章」使徒28:16-31 中村吉基

使徒言行録は聖霊言行録という人もあるくらい聖霊の働きが人や教会を働かせている。ペンテコステの日祈りの家にいた人は皆聖霊を受け、イエスキリストのことを伝えた。酔っていると思われもしたが、3000人の人が洗礼を受けた。原始キリスト教は苦難の連続であった。投獄や鞭打ち、死ぬような目にあうことも度々とパウロは書いている。それを乗り越える力を与えたのは聖霊であろう。当時としては驚きであった外国人伝道、ペトロにとっても抵抗があったものだが、神に咎められコルネリオに洗礼を授ける。パウロも3回もの外国人伝道をする。外国人伝道をすればするほどユダヤ人たちからは疎まれひどい目にあったが、福音のメッセージはすべての人を救いに導くということを伝えたかった。使徒言行録は28章で終わるが、使徒言行録」の最後に記されている言葉「神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた」のようにキリスト教はそこから2000年、神の国を延べ伝えてきた。私たちの教会もまたこの29章に連なり描いていかなければならない

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「心を抉られる経験」使徒2:37-42 中村吉基

五旬祭の日、主イエスが甦った喜びを伝え、十字架のイエスを神は主としメシアというペテロの説教をきいた人々「深く心を抉られ」(荒井訳)と聖書にはある。聞いた人々のどうしたらいいかを質問に対しペテロは「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです」と答える。これに応えて洗礼を受けたものはこの日だけで3千人あったと記されている。福音のメッセージを聴いて、「深く心が抉られる」経験をしたことがあるだろうか?どのようにして福音の言葉が届けられたのかを思い起こし、聖霊の賜物をもって福音を伝えよう。聖霊は必ず私たちを支え、それを助けてくれるのだ。

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「教会は〝ことば〟から始まった」使徒2:1-11 中村吉基

ペンテコステは、失望して閉じこもっていた人たちが、神の力を受けて外に出て行き、同じように悲しみや苦しみの人生を送ってきた人々に「神の偉大な業」を告げ知らせる者へと変えられていった出来事と読み取ることができる。教会の歴史の始まりである。教会は建物ではなく組織でもない。当初の教会はそれぞれの賜物を与えられた人をイエスが召し集め聖霊が接着剤の役目を果たしているのであろう。多様な言葉で話し始めたペンテコステは一致した教会の始まりには思えないかもしれないが、全て神のお創りになったものである。神はこの世界をおつくりになったのもことばによるものであった。今日の旧約はバベルの塔であるが、ここで通じなくなったものがペンテコステで再びつながったのである。この出来事が我々の教会でも実現しているのことである。我々がひとりひとり違っていることを喜び、それぞれが聖霊をお迎えして、この信仰の共同体を、聖霊の力によって前進させていただこう。