主日礼拝一覧

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「イエスが選んだ器」使徒9:1−19前半 中村吉基

サウロ(後のパウロ)はユダヤ教の指導者であるのと同時に主イエスを信じる人びとを迫害していた。それほど当時のキリスト教徒の影響は大きかったのである。サウロは自分のしていることは正しいと信じていたが、ダマスコの旅の途中に倒れ「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。そして起きて町に入れと言われる。そのころダマスコではアナニアがサウロを訪れるように主イエスに言われる。自分の行動を自分で決めてると私たちも思いがちだが、キリスト者は主イエスだったらどうするかを考え従うべきである。アナニアは主イエスに「サウロは私が選んだ器」と言われる。聖書では人間を器によく例えるが、見た目が大切なのではなく何を入れるかが大切なのである。今日の箇所ではサウロもアナニアも対応はそれぞれであるが、名前を呼ばれてる。主イエスは私たちの名前も呼んで、「わたしはここにおります」という応答を待っておられる

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「恐れるな。語り続けよ」使徒18:1-11 中村吉基

アテネで伝道がうまくいかなかったパウロはコリントにいたユダヤ人への宣教もうまくいかない。イエスをメシアと認めないユダヤ人に口汚く罵られ服の塵を振り払って異邦人へ伝道することを決める。異邦人の人々に福音は受け入れられたが同胞のユダヤ人とは膠着状態にあったパウロは苦しかったはずである。そんな時神はパウロに「恐れるな。語り続けよ。黙っているな」と語りかける。これは神が「共にいてくださる」ということである。今日は平和聖日、第2次大戦中キリスト教会は国策によって合同したが、厳しい弾圧にあった教会もあり、逮捕・検挙された牧師もたくさんいた。教団には、そんな彼らを見捨てた歴史がある。戦後鈴木正久によって、正しい判断ではなかったという戦責告白を公にした。沈黙は罪である。私たちはペトロやパウロの時代に始まって連綿と「平和の福音」を告げ知らせてきた教会なのである。

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「福音を告げ知らせながら」使徒8:1-8 中村吉基

今日の箇所にはサウロとフィリポという2人がでてくる。サウロはキリスト者を迫害しているユダヤ教の指導者、フィリポは選ばれた7人の執事のうちのひとりである。サウロは後のパウロ、彼の話は、誰でもする失敗、または悪事をしても自分のもとに悔い改めて戻ってきた者に力を与えるという神の力を証しである。一方サマリアでは迫害から命からがら逃げたフィリポが困難な状況下で生きていたサマリア人に福音宣教をしていた。ユダヤ人から忌み嫌われていた地で貧しくされ福音の教えを必要としている人びとがたくさんいたのである。ステファノの死を乗り越えて、自身も迫害されながら、福音を宣べ伝える事ができたのか?それは信仰の力であり、現代社会を生きているすべてのキリスト者が目指すべき姿である。社会の片隅で心が擦り切れそうになっている人たちに寄り添いなさいという神の促しなのである。

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「騒ぐな」使徒20:7-12 竹澤潤平

トロキアでたくさんの人が集う礼拝中に窓に腰かけていたエウティコは落ちて死んでしまう。しかしパウロは「騒ぐな」といい礼拝を続ける。実際エウティコは生き返る。イエスも似たようなことをして恐れることはない。ただ信じなさいと言っているが、つまり「騒ぐ必要はない、恐れることではない、泣き騒ぐ必要はない、安心していなさい」という意味である。マケドニア州で反抗され、口汚くののしられても、パウロは主から「語り続けよ」と言葉を受けた。十字架にかかり、殺され、死から復活された御方が語る希望である。主の約束の御言葉によって、安心してこの世を歩み続ける力を与えらる。

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「最期の言葉」使徒7:54-60 中村吉基

ペンテコステの日に聖霊を受けた主イエスの弟子たちは熱心に福音を人びとに伝えていき、主イエスを信じる人びとが爆発的に増えていった。しかし、教会の中で、背景が違うもの同士のいさかいや分配をめぐり人間的な争いごとが起き始める。そこで使徒たちは「“霊〔聖霊〕”と知恵に満ちた評判の良い人」を選ぶように言う。その中の一人がステファノである。彼は非常に評判のいい人物だったようだが、逮捕されて最高法院での裁判にかけられてしまう。キリスト者たちに敵対している人がステファノとの議論し歯がたたず恨みに思い、偽りの証人に証言をさせるからである。今日の箇所の前半はステファノの弁明である。内容は主イエスを思わせるものであるが、聞いていた人々は激しく怒り、石打ちで処刑するという判決を下す。そして人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、都の外に引きずり出して石を投げ始めた、一方ステファノは「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んで眠りについた。主イエスだけを、主イエスの愛のみを見上げたステファノの強く、雄々しい最期である。この石打ちの現場に「サウロという若者」の名前が登場する。

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「異なるものが互いに愛し合って一つになる」 ローマ5:1-5 ジェフリー・メンセンディーク

ペンテコステは聖霊によって私たちの心に愛が注がれた日であり、神様に愛されているがゆえに私たちは聖霊の勢いに押し出され歩みへと招かれる。キリスト教の名のもとにヘイトや偽り、暴力、排他主義、絶対主義が横行しているが、聖書の教える神様の愛に反している。今日の箇所にある4つの言葉平和、恵み、忍耐、聖霊を中心にみていきたい。1つ目は神様との間にある「平和」、命の尊さやその人らしさが神様の創造によるであり、尊厳性の根拠である。2つ目の「恵み」。咎のある人間であるが、それでも神は私たちをご自分との関係に招き入れられ、「神の栄光にあずかる希望」に向かって歩ませてくださる。3つ目は「忍耐」、ある時「異なるものが互いに愛し合って一つになる」と書いてある墓石を見た。この言葉ほど神様の愛の方向性を言い当てているものはない。人間の多様な考え方の違いを超えて「一つになる」。「異なる者」を理解し、また「異なる者」に理解される営みという「苦難」。パウロはよく知っていたし、キリスト者に伝えている。神様の平和と恵みによって忍耐する力を神は用意してくださっていて、それは神様の恵みに対する私たちの応答であり、忍耐の先には希望がある。その助け手が聖霊である。

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「心と思いを一つにして」使徒4:32-37 中村吉基

今日の箇所は教会初期の記録であるが、まだ教会ではなく「信じた人々の群れ」と書かれている。彼らはイエスキリストを信じ、無所有を是としていた。彼らには「大いなる力」(ダイナマイトの語源になったデュナミス)、つまり神の恵みがあった。それをもってキリストの復活を宣べ伝えていたのである。また使徒たちは人々から非常に好意を持たれていたとあるが、「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった」と結んで読んだ方がいいだろう。彼らは土地や家うぃ売って代金を持ち寄り共同体各々に分配された」という。カルト教団に似た例があるが、所有するとそういう危険を犯してしまう弱さもあると覚えておかねばならない。しかし当時の教会では申命記にある「貧しい者はいなくなる」という神の約束が実現されていた。「ささげない」と言われた時、不要な物や余裕のあるものから出していないだろうか?神は独り子主イエスを出された。最初のキリスト者たちは神の模範に倣って、神の愛を実現していた。自分の前にいる様々な困難にある人に自然に愛の行いをすることができた。私たちの教会もそれに倣っていきたい。

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「キリストの名によって」使徒3:1-10 中村吉基

エルサレムの神殿の「美しい門」で物乞いをしていた生まれながらに「足の不自由な男」は、神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていた。決して門の中には入れなかった。そこを通ったペトロとヨハネは「金や銀はないが」と前置きし、「イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と言うと、その男は歩き回り、神を賛美し、一緒に境内に入り神を賛美した。施されたものが金と銀であればその男の当面は潤ったかもしれないがまた尽きれば元通りである。しかし使徒たちは、「イエス・キリストの名によって」永遠の救いを約束した。今日の箇所が教えていることは、金と銀ができることには限界がある、それには頼らずイエス・キリストを信じ、模範として生きることが大切である。私たちがすべきことは「キリストの名」を人びとに与えることが、教会がなすべきことである。

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「心を抉られる経験」使徒2:37-42 中村吉基

五旬祭の日、主イエスが甦った喜びを伝え、十字架のイエスを神は主としメシアというペテロの説教をきいた人々「深く心を抉られ」(荒井訳)と聖書にはある。聞いた人々のどうしたらいいかを質問に対しペテロは「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです」と答える。これに応えて洗礼を受けたものはこの日だけで3千人あったと記されている。福音のメッセージを聴いて、「深く心が抉られる」経験をしたことがあるだろうか?どのようにして福音の言葉が届けられたのかを思い起こし、聖霊の賜物をもって福音を伝えよう。聖霊は必ず私たちを支え、それを助けてくれるのだ。

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「心を合わせて祈る」使徒1:12-14 中村吉基

復活された主イエスは、聖霊による洗礼を授けられ、あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となると語られたと語った後、天に昇られた。場所は通称「オリーブ山」、ベタニアやゲツセマネの園がある場所である。今日の箇所では、聖霊降臨の現場となる部屋、つまり泊まっていた家の上の部屋(the upper room)で使徒たち、婦人たち(おそらくルカ8:2,3に記されているような女性たち)や母マリア、兄弟たちが心を合わせて祈り聖霊降臨を導いた、危機的状況を乗り越えたのである。「嵐の中の教会 ヒトラーと戦った教会の物語」という本にはドイツの小さい村の教会で、ヒトラーの影響は強まる中で、「聖餐式によって生まれる共同体は、国民共同体よりもはるかに深い」といった説教をした牧師と、それを「アーメン」と信徒が受け入れ、一つになった瞬間が書かれている。我々はヒトラーの時代のようには緊張した時代ではないかもしれないが、聖餐はいつでも厳粛な出来事、パンとぶどう酒の形をした主イエスが来てくださり、私たちに入って一体となってくださることである。かつて日本が戦争に突き進んでいた時のようにイエスを格下げすることのないように、私たちは心を一つにして祈るところにのみ、聖霊が与えられることを信じたい