中村吉基一覧

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「イエスに聴き従う」マタイ17:1-13 中村吉基

福音書におけるイエスの変容の出来事は、私たちがどのように生きるべきかを教えている。イエスは神の栄光を顕わし、弟子たちに自分を示すことで、神の意志に従う重要性を示した。ペトロが提案したように、現実から離れ、快適な場所に留まりたくなる気持ちがあっても、神は私たちを現実の中で生きるように呼びかけている。苦しみや試練を乗り越える先に永遠の命が待っており、イエスに従い続けることが人生の道を示してくれる。変容の出来事は、私たちが苦難を乗り越えた先に、神の栄光と祝福があることを示唆しており、その道を進むことが私たちに与えられた使命である。

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「教会に鍵をかけてしまわないために」マタイ16:13-20 中村吉基

礼拝や祈り、賛美歌は信仰告白であり、私たちは神に対して「応答」することが求められている。主イエスが弟子たちに自分についてどう思うか尋ねたように、信仰の告白は他人の言葉に依存せず、個々人が自分の言葉で行うべきである。ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白し、イエスがペトロに教会を建てる使命を与えたという箇所にも見えるとおり、イエスは誠実に神の呼びかけに応じた者に使命を与える。、「みんな神さまの家族」という賛美歌やブラザーロシェが示すように、開かれた教会を作り上げるために協力し祈ることが大切である。

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「神の国はあなたたちのところに」マタイ12:22-32 中村吉基

聖書の時代、病気や災いは悪霊の仕業と考えられていた。イエスは悪霊を追い払い、病を癒し、その力が神から来たものであると信じる者が増えた。しかし、ファリサイ派はイエスの力を悪霊の頭ベルゼブルによるものだと非難した。イエスはそれに対し、悪霊が悪霊を追い出すことはあり得ないと反論し、自らの力が神の霊によるものであることを示した。また、聖霊への冒涜は赦されない罪であり、神の霊による業を否定し続けることが罪であると警告した。この教えは、私たちが謙虚に悔い改め、神の導きを受け入れることの重要性を説いている

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「安心しなさい 恐れるな」マタイ6:22-36 中村吉基

信仰の中にある「恐れ」と「疑い」というテーマが取り上げられている。ペトロが湖の上を歩く奇跡的な出来事を通じて、信仰を持つ人でも不安や疑念が湧くことが示される。特にペトロが強風に恐れ、疑いを抱く場面は、私たちが信仰の中でも揺れ動くことを象徴している。その中でイエスは「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と語りかけ、信仰を持って助けを求める者を支えてくださる。この言葉は、現代に生きる私たちにとっても大きな慰めとなり、信仰が試練の中で強められることを示唆している。イエスの奇跡の力とともに、信じる力が重要であり、恐れや疑いの中でも神にすがることが大切であることが教えられている。

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「旧いものからの脱却」マタイ21:12-16 中村吉基

アメリカ・ワシントン教区のマリアン・エドガー・バディ主教は、大統領就任礼拝で慈愛と尊重を求める説教を行い、トランプ氏から批判を受けました。この出来事から、形式化した礼拝に警鐘を鳴らし、神殿で怒りを表したイエスのエピソードが再確認されます。教会はすべての人の祈りの場であるべきです。形式主義や特権意識を捨て、他者に奉仕する心を取り戻すことが求められています。

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「あなたは私の愛する子」マタイ3:13-17 中村吉基

今日はイエスの洗礼を記念する日、従ってイエスの洗礼の箇所である。今日の箇所を通じて、まことの神そして人として仕えるイエスの姿に学ぶところが多い。主イエスに従う私たちはさまざまな方法で招いて下さった。主イエスが教えてくださった「神の国」の住人になることの表明が洗礼である。しかし洗礼を受けてもそれにふさわしい生活ができないときがある。しかしどんな時にも神を信頼し続けるだけで神は私たちを忘れてない。神に愛されている人は皆神の子なのである。主イエスは今日も私たちに「あなたはわたしの愛する子」と言ってくださっている。

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「向き合う者として」マタイ2:13-23 中村吉基

ヘロデによってイエスが殺されたら神の国の福音は人間に伝えられることがなかった。ヨセフはマリアとイエスを連れてエジプトに逃れるが、ヘロデ亡き後、息子アルケラオの支配が及ぶユダヤ地方を避けてナザレに住んだ。ヨセフとマリアは神の子を第一とする信仰を守っていた。神がアダムとエバをおつくりになったときの思いがヨセフとマリアに受け継がれているのである。ところでアダムのあばら骨から「彼に合う助ける者」として作られたエバという表記は長いこと男は女より優位という解釈を生んできた。しかしもともとの言葉は「エーゼル・ケネグドー」、いろいろな意味があるが英語圏では「パートナーとしての助け手」という語があてられている。同じ目線で助けあう存在なのである。我々は神さまから作られたお互い「エーゼル・ゲネグドー」として助け合い交わっていきたい

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「人生を導く神の光」中村吉基

今日の箇所は「3人の博士たち」である。博士や王などと絵本や絵画ではあるが聖書の原文ではマゴイ、マジシャンのような意味である。また彼らはペルシアもしくはエジプト北部からきた異邦人であり、そこの占い師といえば「闇の中に生きている人々」と軽蔑の対象であった。神さまはそのようなマゴイに星を示して導いたのである。神さまがすべての人の、低いところにある人々にも、平等を願いイエスを送ったことを示している。マゴイ同様に私たちのことも守ってくださる。神さまと結ばれることによって我々は完全な者になることができる。人生の旅で迷ってもマゴイを導いた星を示してくださった神様を信じて祈り、神の御心を聞くことはできることを信じたい。

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「正義の神は私たちと共に」イザヤ61:1~11 中村吉基

今日の箇所の預言者は通称を第3イザヤといい、イスラエルがバビロン捕囚から解放され破壊された神殿を再建した頃に活動した。無残に破壊された神殿を前に失意のどん底にあった人々に第3イザヤは希望をもって神の言葉を取り次いでいった。「失意の中、力を失くし、絶望し、嘆いている人に」「打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人に自由を/つながれている人には解放を告知」する力を持った「知らせ」である。私たちも苦難の中にあり、時には報復も考えてしまうときもある。しかし神は苦難に喜んで与えているのではなく、私たちがどう対処するかをご覧になっている。神は私たちを高く評価し日々私たちを上昇させようとされている。待降節ははやる心を抑えて待ち、自らの信仰を省みる時である。神にすべて委ねよう。ガラテヤの信徒への手紙でパウロがこう言う「たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります」

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「先が見えないような時にも」イザヤ2:1-5 中村吉基

世界が終わる日、だれもがエルサレムに行って神の神殿で礼拝したくなるとイザヤは言う。天と地を結ぶ場所のエルサレムで神さまが私たちに備えられる「道」を授かり「剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする」、つまり戦争はなくなる。これが神の支配する世界である。これが信じられるだろうか?神さまは私たちの後ろ盾・導き手として道を示してくださる。何も恐れることなく与えられた道で神さまに従っていけばいい。待降節第一主日は希望の日曜日とよばれる。暗い絶望の中にあっても闇の中に輝く神さまの愛の光には「確かさ」がある。私たちがすべきことは、苦難の中にあっても心を高く上げて、まなざしを天に向けて、神さまを仰ぐことである。