ペトロ一覧

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「聖霊を受けよう」使徒10:44-48 中村吉基

明治初期のキリスト教の教会をめぐる記録には「聖霊に満ちた」経験がいくつかある。J・H・バラ宣教師の夢やそれに続くリバイバル、池袋清風の祈りなどである。今日の箇所でも、コルネリウスの家で話していたペトロは、そこにいた人は皆聖霊が降ったことに驚いた。ユダヤ人以外にも降ったからである。そこでペトロは神のみ心を悟った。これによりペトロは自分で作っていた律法を捨てるという劇的な変化をとげる。この教会にも働いてくださってる。聖霊の働きの祈りは、食事や睡眠のようになっていないだろうか?主イエスが来てくださって、私の人生を変えてくださることを信じて祈るならば、聖霊は来てくださる。それを求めて真剣に祈りを合わせたい。

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「行動する人、しない人」使徒10:1−16 中村吉基

使徒言行録10章に出てくるコルネリウスは異邦人の百人隊長で、ユダヤ教に改宗こそしていないが信仰心あつい人であった。ある日彼の前に現れた天使に「ヤッファにいるシモン・ペトロをを招きなさい」と言われ、すぐに2人の召使と信仰心の厚い兵士を送る。一方ペトロの前にも天使が現れ、ユダヤの律法で禁じられているものを屠って食べるように命じるが「できない」と断る。すると「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」という声がする。コルネリウスとペトロは行動が対照的である。ペトロはコルネリウスとの交流で神の声を悟る。私たちはペトロのように自分の作った律法で最初から結果を決めつけて行動に移さないことがないだろうか?私たちは神に命じられた時にすぐに立ち上がることができるか問われている。

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「キリストの名によって」使徒3:1-10 中村吉基

エルサレムの神殿の「美しい門」で物乞いをしていた生まれながらに「足の不自由な男」は、神殿の境内に入る人に施しを乞うため、毎日「美しい門」という神殿の門のそばに置いてもらっていた。決して門の中には入れなかった。そこを通ったペトロとヨハネは「金や銀はないが」と前置きし、「イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と言うと、その男は歩き回り、神を賛美し、一緒に境内に入り神を賛美した。施されたものが金と銀であればその男の当面は潤ったかもしれないがまた尽きれば元通りである。しかし使徒たちは、「イエス・キリストの名によって」永遠の救いを約束した。今日の箇所が教えていることは、金と銀ができることには限界がある、それには頼らずイエス・キリストを信じ、模範として生きることが大切である。私たちがすべきことは「キリストの名」を人びとに与えることが、教会がなすべきことである。

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「心を抉られる経験」使徒2:37-42 中村吉基

五旬祭の日、主イエスが甦った喜びを伝え、十字架のイエスを神は主としメシアというペテロの説教をきいた人々「深く心を抉られ」(荒井訳)と聖書にはある。聞いた人々のどうしたらいいかを質問に対しペテロは「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです」と答える。これに応えて洗礼を受けたものはこの日だけで3千人あったと記されている。福音のメッセージを聴いて、「深く心が抉られる」経験をしたことがあるだろうか?どのようにして福音の言葉が届けられたのかを思い起こし、聖霊の賜物をもって福音を伝えよう。聖霊は必ず私たちを支え、それを助けてくれるのだ。

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「あなたがたは行って……」マタイ28:16-20 中村吉基

5月18日木曜日が主の昇天記念日で世界中の教会で祝われたが、それは主イエスの力が全てに及ぶことを意味する。今日の18節以下で彼は弟子たちにすべての民を弟子にしなさいと言ったが、ただ信徒を増やせばいいのではない。福音の教えによって視座の転換、つまり悔い改めをすることが大切である。二千年前、わずか11人で始めた「イエスはキリスト」という教えを、異邦人にも積極的に伝道し、ある人は音楽や美術など遠して主イエスを表現した。私たちもイエスの弟子である。イエスは私たちに「行きなさい」と言われる。また20節にある「あなたがたに命じておいたこと」というのはたくさんあるが、最も大切なことは「神を愛し、隣人を愛しなさい」である。今日の箇所には「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」とある。私たちも聖霊の力をいただいて今の自分にできることからはじめていこう。