コリントの信徒への手紙I一覧

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「わたしたちは一つの体」コリントⅠ 10:14-22 中村吉基

今日は「世界宣教の日」「世界聖餐日」です。日本キリスト教団は6か国に9人の宣教師を派遣しており、世界中の教会と連帯して聖餐を祝います。パウロは、聖餐を通してキリストと「交わる」ことが大切であり、キリストの血と体にあずかることが偶像礼拝から逃れる道でもあるとしています。ナチス時代のドイツ教会がキリストの教えに忠実であろうとし、困難な状況においても信仰の共同体として一致しました。私たちの日本もかつて戦争に突き進み、散り散りになっていきました。聖餐は、私たちがキリストを信じることで一つの体となり、神の力を信じて祈る場です。心を一つにして祈るところにのみ神の力が顕されることを信じましょう。

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「神のために力を合わせる」コリントI3:1-9 中村吉基

パウロがコリント教会にあてた手紙には「霊の人」という語が出てくる。聖霊によって新しく生まれ変わった人という意味で、つまりクリスチャンのことである。反対語は「肉の人」、乳飲み子のように言葉を理解せず信仰者として成熟していない人のことで「ねたみや争いが絶えない」コリントの人々は「肉の人」とパウロは手厳しい。具体的には、コリント教会内でユダヤ人から改宗してクリスチャンになったアポロとパウロのどちらを尊敬するかで言い争っている様子である。パウロは「2人とも奉仕者」、キリストへの信仰に導いた器に過ぎないのに、肝心のキリストを見ていないと嘆く。パウロは信仰者としての成長を植物に喩えている。指導者が種をまき、他の指導者が水を注ぐ。しかし成長は神の業である、人間的なことに思いを馳せる「肉の人」を引き上げて成長させるのは神一人であるという。そして今日の箇所の最後では「わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです」と書く。今年度の代々木上原教会では、「神の同労者」という言葉に大切にして年間聖句とした。私たち一人一人が神の同労者で神が招いてくださった教会で力を合わせて奉仕して教会を形作っていくのである。

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「わたしの記念として」Iコリント11:23-26 廣石望

本日の聖書箇所にある「主の晩餐」には何があり、イエスがそこに託した意味は何だろうか?まずこれはイエスが「罪人」と呼ばれる者たちと共に祝った「交わりの食卓」の延長線上である。イエスにとって「神の王国」は宴であり「交わりの食卓」は「神の王国」を先取りするものであった。ではパウロのコリント教会に宛てられた書簡においてはどうなっているのだろうか?冒頭の「私自身が主から受けたことを、君たちに伝えもした」で伝承の受け渡しを示唆し、「君たちがこのパンを食べ、そして杯を飲むごとに」とあるので、定期的に食事式を枠とする礼拝があり、それが「わたしの記念として」、つまり今は死んだイエスの生前のあり方を想起することが目的だったことがわかる。最後の「君たちは主の死を告げ知らせるのだから―彼が来るまで」の一文で昇天しているイエスがやがて審判者として到来する。キリスト教共同体は、主イエスの「死」を告知し続けることになる。イエスの死は暴力的な虐殺の死ではあったが神は共にいた。彼はイエスと共に死の中へと歩み入り、死者たちの中より起こし天高く引き上げ天上の宴の喜びに加えた。やがてイエスは来たり、自分がこの世界すべての現実の規準であることを示すであろう。

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「朽ちないもの」コリントI15:30-53 廣石望

キリスト教は復活のキリストを頭とする「死ねる者たち」と「生ける者たち」の両方から成る共同体である。「蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し」という対比で始まる今日の箇所は、キリストの運命こそがすべての人間の運命にとってモデルないし雛形というパウロの言葉である。近代以降の私たちに他者との命のつながり、ましてや失われた命との交流は可能だろうか?これに対してパウロがもっているイメージは「死者は復活して(/起こされて)朽ちない者とされ、私たちは変えられる」とあるように「変身」である。それ以降も読むと私たちと死者たちの交流が新しく回復されることが含まれる。神の裁きを介して新しく創られ解放される。「朽ちないもの」とは神による和解の達成、それを信じる私たちの死者たちへの連帯、またこの世で傷つけられている小さな命のための祈りである。