イザヤ書一覧

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同行二人(どうぎょうににん)ヨハネ1:29-34 中村吉基

洗礼者ヨハネがイエスを「世の罪を取り除く神の小羊だ」と言った時、イエスはまだ神の子について説かず奇跡も行っていない、ナザレに住む普通の男だった。それどころか家畜小屋に生まれ十字架で殺されている。人は家柄や裕福さや勤務先などが大切だと思いがちだが、神にはかけがえのない存在である。私たちは神がどんな使命を与えているかということに気がつくことである。イエスは当時重い皮膚病で「罪人」とされたような人々、共同体から追放された人々の「友」となられた。人間社会からから抹殺されていた人びとがイエスによって生きる力を回復させていったことを指して「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と表現した。当時は証言するには2人以上の証人が必要だった。イエスのしたことは、ヨハネに強く印象に残った。だからイエスは神の子だと「証しし続けてきた」のである。その主イエスのいのちをいただいている私たちであるが、現代において、この「世」の人びとの希望となり光となっているとはいい難いだろう。本当に主イエスの愛、いのちにつながっていくことによって、ヨハネのように「わたしはそれを見た」と真実の言葉を語ることが出来る。信仰と思いとことばと行いを新たにしたい。

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「星に導かれて」マタイ2:1-12 中村吉基

今日は、主イエスが世界のすべての人の救い主としてお生まれになった公現を祝う日である。ここに登場する占星術の学者は「マゴス」と呼ばれる人々、「ペルシャないしバビロニア地方の祭司兼賢者で、占星術や夢占いなどをもよくした人」(佐藤研)である。ユダヤ社会では占いは禁じられていた。ヘロデでさえもひそかに呼び寄せたほどである。マタイのテーマの1つは「社会の中で差別されている人びとと主イエスとの出会い」、ユダヤの社会の中で認められてもいなかったマゴス達が幼子イエスの前に最初に拝むことを許されたのである。主イエスは私たちが「持てないもの」(あるいは持たないもの)をすべてご存知で、私たちの重荷や労苦を担うがためにお生まれになったのだ。学者たちは、星によって導かれるままにユダヤの国へ来たが、どこにお生まれになったかはわからなかったのは不思議である。ただ彼らは星を見て喜びにあふれたとある。そしてユダヤの人々にきいてわかった家に着くや否や幼子をひれ伏して拝んだのである。私たちも救い主に出会った時があったが、その喜びが小さくなってきていないだろうか?それを打開する方法は一つ、神が救い主をお与えくださったこのクリスマスの事実を周りの人々にも伝えていくことである。目的の場所まで導いてきてくださるのだという確信と、私たちが普段の生活の中で、他の人々とのかかわりの中で、私たち自身が誰かの「星」になっていきたいと思いながら、2024年の扉を開けよう。

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「平和の君の誕生」イザヤ9:1-6 中村吉基

2700年前預言者イザヤが「闇の中を歩む民は、大いなる光を見/死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」とイエスの生誕を預言した頃のイスラエルは、アッシリアに侵略され非情で残忍な支配をされており、「闇の中を歩む民」であった。故にイザヤの言葉に耳を貸す人はいなかったが、イザヤは「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」がおうまれになり、神は深い喜びをお与えになり、人々は喜び祝う、と続ける。その700年後、羊飼いのところに「ダビデの町であなたがたのために救い主がお生まれになった」と天使が告げる。「自己中心」という深い闇の中にいる私たちのために、光と調和をもたらすために来てくださった。神は世界の平和の実現のためキリストを通してお与えくださったのがクリスマスである。「自分さえよければ」という思いを棄て、苦悩や悲しみを「神様、救ってください」と祈ってみよう。私たちは弱さを抱え、たとえ小さな力であっても神の平和が実現するように主イエスと共に歩もう。

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「主が来られる」イザヤ52:1-10 中村吉基

今日から待降節、クランツのろうそくの1本目に火がともされた。クランツのろうそくにはそれぞれ意味があり、今日は「預言のろうそく」、「希望」を表している。キリストは旧約聖書に記されている預言の成就としてお生まれになった。2本目以降も「平和「喜び」「愛」を表しており、人間の姿となってきてくださったイエス・キリストからもたらされる。しかし今日の箇所のころは、希望というより絶望の中で大国バビロニアに捕囚され苦難の時期である。しかし解放が迫っている、神は人を見捨てることはない。ヘンデルの歌にもなったこの箇所は、神が人々のために動かれる希望の到来である。これは古のイスラエルだけではなく現代の私たち一人一人の無気力や絶望の深みから救い出してくださる。私たちは、その神の救いを伝え続ける共同体でありたい。

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「子どもをしゅくふくするイエスさま」イザヤ11:6-8 マルコ10:13-16 中村吉基

(子ども祝福礼拝で教会学校と合同礼拝)預言者イザヤは今日の箇所で驚くべきことを言っている。こんな光景を私たちは知らない。私たちのまわりには「強い人」と「弱い人」がいる。豊かさ、健康、才能…その時の状況とあわせて立場は変わる。弱い人は苦しく、強い人にあわせて生きていくのはつらいことだ。しかしイザヤはそのように安心して毎日を過ごせる平和な日々が来るだろうと、そこに神さまの栄光が輝くという日が来ると伝えた。さて今日の新約の箇所はイエスのまわりにたくさんの人が集まっていた。中には子供の病を治したい親もたくさん集まっていた。弟子たちは叱ったが、イエスは優しく子ども達を招いた。もうすぐクリスマス。神のひとり子イエスさまは私たちの世界に来てくださった。神さまが私たち人間という弱い者に合わせてくださったということだ。私たちもそれを知り、他の誰かのペースに合わせてともに生きることができれば幸いである。

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「真実は勝つ」使徒26:24-32 中村吉基

今週10月31日は宗教改革記念日、ルターの「95箇条の提題」を記念する日であるが、もう1人の旗手ジャン・カルヴァンの教会で用いられた「ジュネーブ詩編歌」を中心に礼拝を構成している。現代はカトリックとプロテスタントがかつてないほど大きく歩み寄っていて、宗教改革記念日を憶える教会が減っているともきくが、いつでも原点に帰る必要がある。今日の箇所パウロはアグリッパ王の前で弁明している。全身全霊で真実で理にかなったことを話したパウロは無罪を認められたが、ローマに渡り、そこでまた2年をすごす。その間各地の信徒へ手紙を書き「キリストの十字架の死によって神と人間は和解したのだ」と送る。かつてキリスト者を迫害すしていたが、復活のイエスに愛真実を知った。キリストの十字架を心に信じる信仰が有れば神は救ってくださる、パウロの中でこの福音は大きな喜びに変えられて行った。それと同じ信仰の喜びにルターやカルヴァンも気づき、プロテスタント教会に受け継がれている。パウロがどういう最期だったのかよくわかっていないが、パウロは知っていた、「真実は勝つ」と。

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「無からの出発」フィリピ2:6−11 中村吉基

2000年前の教会でも人間関係の問題が起こっていた。さまざまなキリストに対する思い、信仰心が原因であるが、パウロはキリストが揺るぎなくそこに宣べ伝えられているならば、喜びである。ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。たとえ今バラバラでもキリストへの信仰が私たちを一つにさせる、と獄中からの手紙に書く。そこから今日の箇所になるが、これは原始教会に伝わる「キリスト賛歌」(讃美歌)と理解していいだろう。ここを本田哲郎神父の訳で読むと新たな目が開かれる。これは「低みから働く神を啓示しているキリストの賛歌」であり、神と等しい生き方にこだわらず、ご自分を一旦「無」にされ、「僕」となられた。ここから私たちに教えていることは、「低み」にいたとしても、神はそこから必ずこの「私」を救い出してくださる「喜びの希望」ともいうべきものである。キリストが無になったお姿で人びとに仕えられ、十字架の死での無から復活の新しいいのちが神によって与えられたことを私たちの模範としたい。私たちには復活のイエス・キリストが与えられている。キリストにおいてこそ私たちは一つとなり、キリストを礼拝し、模範とした愛の生き方をする教会が神に心に叶った教会だとパウロは確信していた。

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「使徒言行録29章」使徒28:16-31 中村吉基

使徒言行録は聖霊言行録という人もあるくらい聖霊の働きが人や教会を働かせている。ペンテコステの日祈りの家にいた人は皆聖霊を受け、イエスキリストのことを伝えた。酔っていると思われもしたが、3000人の人が洗礼を受けた。原始キリスト教は苦難の連続であった。投獄や鞭打ち、死ぬような目にあうことも度々とパウロは書いている。それを乗り越える力を与えたのは聖霊であろう。当時としては驚きであった外国人伝道、ペトロにとっても抵抗があったものだが、神に咎められコルネリオに洗礼を授ける。パウロも3回もの外国人伝道をする。外国人伝道をすればするほどユダヤ人たちからは疎まれひどい目にあったが、福音のメッセージはすべての人を救いに導くということを伝えたかった。使徒言行録は28章で終わるが、使徒言行録」の最後に記されている言葉「神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた」のようにキリスト教はそこから2000年、神の国を延べ伝えてきた。私たちの教会もまたこの29章に連なり描いていかなければならない

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「受け容れる人、拒む人」使徒13:44-52 中村吉基

パウロとバルナバの教えは異邦人には評判がよくたくさんの人に受け入れられたが、「選ばれた民族」と信じていたユダヤ人からは反対された。しかしパウロとバルナバは勇敢に語り、わたしたちは異邦人のほうに行く」と宣言する。「ただ神にのみ栄光を」とは宗教改革者ジャン・カルヴァンが大切にした言葉である。それは神によって救われた生活を送る、神とともに生きるということである。今日の箇所の最後は「他方、弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた」とある。我々は「喜びと聖霊」に満たされているだろうか?自分のため、または自分の利益のためにとなりがちであるが、そうではなく「ただ神にのみ栄光を」、神の愛の中で生きるのである。

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「福音を告げ知らせながら」使徒8:1-8 中村吉基

今日の箇所にはサウロとフィリポという2人がでてくる。サウロはキリスト者を迫害しているユダヤ教の指導者、フィリポは選ばれた7人の執事のうちのひとりである。サウロは後のパウロ、彼の話は、誰でもする失敗、または悪事をしても自分のもとに悔い改めて戻ってきた者に力を与えるという神の力を証しである。一方サマリアでは迫害から命からがら逃げたフィリポが困難な状況下で生きていたサマリア人に福音宣教をしていた。ユダヤ人から忌み嫌われていた地で貧しくされ福音の教えを必要としている人びとがたくさんいたのである。ステファノの死を乗り越えて、自身も迫害されながら、福音を宣べ伝える事ができたのか?それは信仰の力であり、現代社会を生きているすべてのキリスト者が目指すべき姿である。社会の片隅で心が擦り切れそうになっている人たちに寄り添いなさいという神の促しなのである。