イザヤ書一覧

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「子どもをしゅくふくするイエスさま」イザヤ11:6-8 マルコ10:13-16 中村吉基

(子ども祝福礼拝で教会学校と合同礼拝)預言者イザヤは今日の箇所で驚くべきことを言っている。こんな光景を私たちは知らない。私たちのまわりには「強い人」と「弱い人」がいる。豊かさ、健康、才能…その時の状況とあわせて立場は変わる。弱い人は苦しく、強い人にあわせて生きていくのはつらいことだ。しかしイザヤはそのように安心して毎日を過ごせる平和な日々が来るだろうと、そこに神さまの栄光が輝くという日が来ると伝えた。さて今日の新約の箇所はイエスのまわりにたくさんの人が集まっていた。中には子供の病を治したい親もたくさん集まっていた。弟子たちは叱ったが、イエスは優しく子ども達を招いた。もうすぐクリスマス。神のひとり子イエスさまは私たちの世界に来てくださった。神さまが私たち人間という弱い者に合わせてくださったということだ。私たちもそれを知り、他の誰かのペースに合わせてともに生きることができれば幸いである。

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「真実は勝つ」使徒26:24-32 中村吉基

今週10月31日は宗教改革記念日、ルターの「95箇条の提題」を記念する日であるが、もう1人の旗手ジャン・カルヴァンの教会で用いられた「ジュネーブ詩編歌」を中心に礼拝を構成している。現代はカトリックとプロテスタントがかつてないほど大きく歩み寄っていて、宗教改革記念日を憶える教会が減っているともきくが、いつでも原点に帰る必要がある。今日の箇所パウロはアグリッパ王の前で弁明している。全身全霊で真実で理にかなったことを話したパウロは無罪を認められたが、ローマに渡り、そこでまた2年をすごす。その間各地の信徒へ手紙を書き「キリストの十字架の死によって神と人間は和解したのだ」と送る。かつてキリスト者を迫害すしていたが、復活のイエスに愛真実を知った。キリストの十字架を心に信じる信仰が有れば神は救ってくださる、パウロの中でこの福音は大きな喜びに変えられて行った。それと同じ信仰の喜びにルターやカルヴァンも気づき、プロテスタント教会に受け継がれている。パウロがどういう最期だったのかよくわかっていないが、パウロは知っていた、「真実は勝つ」と。

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「無からの出発」フィリピ2:6−11 中村吉基

2000年前の教会でも人間関係の問題が起こっていた。さまざまなキリストに対する思い、信仰心が原因であるが、パウロはキリストが揺るぎなくそこに宣べ伝えられているならば、喜びである。ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。たとえ今バラバラでもキリストへの信仰が私たちを一つにさせる、と獄中からの手紙に書く。そこから今日の箇所になるが、これは原始教会に伝わる「キリスト賛歌」(讃美歌)と理解していいだろう。ここを本田哲郎神父の訳で読むと新たな目が開かれる。これは「低みから働く神を啓示しているキリストの賛歌」であり、神と等しい生き方にこだわらず、ご自分を一旦「無」にされ、「僕」となられた。ここから私たちに教えていることは、「低み」にいたとしても、神はそこから必ずこの「私」を救い出してくださる「喜びの希望」ともいうべきものである。キリストが無になったお姿で人びとに仕えられ、十字架の死での無から復活の新しいいのちが神によって与えられたことを私たちの模範としたい。私たちには復活のイエス・キリストが与えられている。キリストにおいてこそ私たちは一つとなり、キリストを礼拝し、模範とした愛の生き方をする教会が神に心に叶った教会だとパウロは確信していた。

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「使徒言行録29章」使徒28:16-31 中村吉基

使徒言行録は聖霊言行録という人もあるくらい聖霊の働きが人や教会を働かせている。ペンテコステの日祈りの家にいた人は皆聖霊を受け、イエスキリストのことを伝えた。酔っていると思われもしたが、3000人の人が洗礼を受けた。原始キリスト教は苦難の連続であった。投獄や鞭打ち、死ぬような目にあうことも度々とパウロは書いている。それを乗り越える力を与えたのは聖霊であろう。当時としては驚きであった外国人伝道、ペトロにとっても抵抗があったものだが、神に咎められコルネリオに洗礼を授ける。パウロも3回もの外国人伝道をする。外国人伝道をすればするほどユダヤ人たちからは疎まれひどい目にあったが、福音のメッセージはすべての人を救いに導くということを伝えたかった。使徒言行録は28章で終わるが、使徒言行録」の最後に記されている言葉「神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた」のようにキリスト教はそこから2000年、神の国を延べ伝えてきた。私たちの教会もまたこの29章に連なり描いていかなければならない

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「受け容れる人、拒む人」使徒13:44-52 中村吉基

パウロとバルナバの教えは異邦人には評判がよくたくさんの人に受け入れられたが、「選ばれた民族」と信じていたユダヤ人からは反対された。しかしパウロとバルナバは勇敢に語り、わたしたちは異邦人のほうに行く」と宣言する。「ただ神にのみ栄光を」とは宗教改革者ジャン・カルヴァンが大切にした言葉である。それは神によって救われた生活を送る、神とともに生きるということである。今日の箇所の最後は「他方、弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた」とある。我々は「喜びと聖霊」に満たされているだろうか?自分のため、または自分の利益のためにとなりがちであるが、そうではなく「ただ神にのみ栄光を」、神の愛の中で生きるのである。

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「福音を告げ知らせながら」使徒8:1-8 中村吉基

今日の箇所にはサウロとフィリポという2人がでてくる。サウロはキリスト者を迫害しているユダヤ教の指導者、フィリポは選ばれた7人の執事のうちのひとりである。サウロは後のパウロ、彼の話は、誰でもする失敗、または悪事をしても自分のもとに悔い改めて戻ってきた者に力を与えるという神の力を証しである。一方サマリアでは迫害から命からがら逃げたフィリポが困難な状況下で生きていたサマリア人に福音宣教をしていた。ユダヤ人から忌み嫌われていた地で貧しくされ福音の教えを必要としている人びとがたくさんいたのである。ステファノの死を乗り越えて、自身も迫害されながら、福音を宣べ伝える事ができたのか?それは信仰の力であり、現代社会を生きているすべてのキリスト者が目指すべき姿である。社会の片隅で心が擦り切れそうになっている人たちに寄り添いなさいという神の促しなのである。

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「最期の言葉」使徒7:54-60 中村吉基

ペンテコステの日に聖霊を受けた主イエスの弟子たちは熱心に福音を人びとに伝えていき、主イエスを信じる人びとが爆発的に増えていった。しかし、教会の中で、背景が違うもの同士のいさかいや分配をめぐり人間的な争いごとが起き始める。そこで使徒たちは「“霊〔聖霊〕”と知恵に満ちた評判の良い人」を選ぶように言う。その中の一人がステファノである。彼は非常に評判のいい人物だったようだが、逮捕されて最高法院での裁判にかけられてしまう。キリスト者たちに敵対している人がステファノとの議論し歯がたたず恨みに思い、偽りの証人に証言をさせるからである。今日の箇所の前半はステファノの弁明である。内容は主イエスを思わせるものであるが、聞いていた人々は激しく怒り、石打ちで処刑するという判決を下す。そして人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、都の外に引きずり出して石を投げ始めた、一方ステファノは「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んで眠りについた。主イエスだけを、主イエスの愛のみを見上げたステファノの強く、雄々しい最期である。この石打ちの現場に「サウロという若者」の名前が登場する。

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「承認から証人へ」ルカ24:36-48 中村吉基

今日の箇所に「あなたがたはこれらのことの証人となる」とある。2000年以上前のイスラエルであった主イエスの復活を私たちが知っているのも、直接見た弟子たちに始まり「復活のキリストの証人」となった人々の「証言」が伝えられたからである。「その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」の中の「あらゆる国の人々に」は大切である。主イエスは全ての人と一緒にいてくださる。つい人を選んでしまったりするような醜い心を清めるのが聖霊である。私たちはもっと聖霊の働きを感じなければならない。十字架の後、喪失感と混乱の中にあった弟子たちは、はじめは信じられなかったが食事をとるイエスを見て復活がわかり、喜びの頂点に達した。「使徒言行録」に記されているようにたったの11人で「すべての人」に福音を伝えた。主イエスは今も、私たちを世界中に遣わされようとしておられる。普段の生活での悩みをうちあけてすっきりする場合があるが、自分の気持ちだけを考えていてはいけない。また遠くでおきたニュースをきいても何もできないと思ってはならない。祈ることや、声をあげることはできるはずである。11人の弟子たちが始めたように、私たちも重い腰を上げなければ何も広がっては行かない。礼拝はイエスの出来事を直接見聞きした弟子たちの「証言」を聞く場所である。一人ひとりが聖霊からの力を受け、教会を形成し、宣教に出かけていこう。

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「わたしを思い出してください」ルカ23:35-43 中村吉基

ゴルゴダの丘の上の3本の十字架のうち2本は悪事を働き死刑宣告を受けた二人の罪人もので、もう1本はイエスのものであった。罪人のうちの1人は、他の律法学者、議員や兵士と同じように「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と罵る。しかしもう1人はイエスが救い主であることをすぐに信じたのか「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」といい、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言う。イエスはそれに対し、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言う。その罪人がどのような人生をおくってきたのか一切問わず、心をいれかえ神へと方向転換しただけで救いの手を差し伸べられたのである。この「楽園」という言葉はパラディソス、エデンの園、つまり神と人とが結ばれて平和に暮らしている世界、それが楽園である。力をなくした状態の中でも、神が共にいてくださることに気づいたときそこはもう楽園である。受難週にあたり十字架に架けられたイエスが「父よ、彼らをお赦しください」と祈ったことを憶え、我々も「自分自身を傷つけた人」をゆるし、私たちが神のみ前でゆるすのはいったい誰なのかを考えよう。その時、我々は憎しみから解放されるのである。

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「あなたを揺り動かす愛」ヨハネ11:1−27 中村吉基

私たちは死後お墓の中で不自由な生活を恐れるが毎日の生活の中での絶望もまた墓場の状態である。主イエスはその墓場から神が造られた素晴らしい世界へと引き戻してくれる。今日の箇所で、ラザロの病を聞いたイエスは2日間とどまりラザロは死んでしまい、マルタや他の人々は「もう少し早く居てくだされば・・・」と口にする。私たちの祈りが届かなかった時のようである。主イエスは神がお定めになった「時」をじっと待っていたのである。長い人生の中には計画どおりにいかないことがあるが神が自分のために何もしてくれないのではなく、神が働いてくださる時が用意されているからである。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか?」という言葉がある。今日も主イエスはこの問いを呼びかけておられる。「はい、信じます」と心から応答する私たちでありたい。