ヨハネによる福音書一覧

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「あなたがたを友と呼ぶ」ヨハネ15:12-17 中村吉基

今日の箇所は、最後の晩餐の際に弟子たちに話された「告別説教」と呼ばれているメッセージである。中で「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」とある。それは弟子のことだけではなく私たちのこともである。キリスト教徒の迫害の先頭に立ってパウロが復活の主に出会って回心し大伝道者となり、教会をたて各地に長い手紙を書いたのも、全てパウロという人が主イエスの「友」とされた、ということに起因している。私たちは(弟子たちも)「自分が主イエスを選んだ」と思いがちである。しかし今日の箇所には「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」ともある。信仰とは、神や主イエスを信じることも、また教会につながっていることも、すべて神の選びによるのだと信じられるどうかにかかっている。また「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」ともある。」と続く。この教えが実現するときに、復活された主イエスは今この時も私たちの中で生き続けてくださる。今日の箇所の直前の11節で「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜が満たされるためである」とあるが、これが主イエスの言いたかったことの集約ではないだろうか?いつも喜んで、その喜びがいつも満ち満ちているために、神は私たちを選び、そして友と呼んでくださる。このお招きに応えて、喜んで主をお迎えしよう。

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「ラザロ、出てきなさい」ヨハネ11:28-44 中村吉基

先週引き続きラザロである。ラザロの死後到着したイエスに姉妹のマリアは「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」という。マルタと同じである。しかしイエスは「もし信じるなら。神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言い、天を仰ぎ「周りにいる群衆のため」と祈り、「ラザロよ、出てきなさい」と言われた。すると、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていたラザロがでてきたのである。現代の私たちにとって「巻かれている」(言語では繋ぐ、縛るのような意味もある)というのはとても厄介である。ガラテヤの信徒への手紙5章1節でパウロが書いているように「「自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由にしてくださった」のである。ラザロはキリストによって巻かれていたものを取り払われた。これと同じように私たちも今日イエスはが名前を呼んで下さり、「出てきなさい」と、闇の中から光のあるところへと引き戻してくださる。病の中でも、失望の中でも、キリストがあの重い十字架を背負い、今この時も共に苦しんでくださっている。しかしマルタとマリアのように「主がいて下さったら、こうならなかったのに・・・」と不満を持ってしまっていないだろうか。主は今日も光の中を歩んでほしいと強く願い、「出てきなさい」という呼んでくださっている。

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「あなたを揺り動かす愛」ヨハネ11:1−27 中村吉基

私たちは死後お墓の中で不自由な生活を恐れるが毎日の生活の中での絶望もまた墓場の状態である。主イエスはその墓場から神が造られた素晴らしい世界へと引き戻してくれる。今日の箇所で、ラザロの病を聞いたイエスは2日間とどまりラザロは死んでしまい、マルタや他の人々は「もう少し早く居てくだされば・・・」と口にする。私たちの祈りが届かなかった時のようである。主イエスは神がお定めになった「時」をじっと待っていたのである。長い人生の中には計画どおりにいかないことがあるが神が自分のために何もしてくれないのではなく、神が働いてくださる時が用意されているからである。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか?」という言葉がある。今日も主イエスはこの問いを呼びかけておられる。「はい、信じます」と心から応答する私たちでありたい。

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「来なさい、そうすれば分かる」ヨハネ1:35-42 中村吉基

今日の箇所はとても単純に見えるが、とても素晴らしい出来事をたった20行足らずに押し込めてあるので、想像力を掻き立てて向き合わなければならない。ヨハネの「神の小羊」という信仰告白を見、イエスに従った弟子たち2人(ひとりはアンデレ)は従って行き、泊まっていた場所に留った。「来なさい、そうすれば分かる」(39節)というイエスの言葉は滞在場所を見せてたかったのではない。そのご性質やお人柄を通して指さす先の神を示してくださったのである。またこの2人もイエスの宿泊先ではなく、主ご自身を知りたかったのである。2人が主イエスのもとに泊まった時、何があったか定かではないが、アンデレはシモンに「わたしたちはメシア(中略)に出会った」といい、シモンを主イエスのもとに導く。この「泊まった」という言葉はぶどうの木の譬えの「わたしにつながっていなさい」と同じ動詞である。2人にイエスはつながってくださったのである。主イエスを心に宿した人は変えられていき、神の力が顕されていくのである。

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「イエスはキリスト」ヨハネ1:1-14 中村吉基

今日の箇所にある「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 この言は、初めに神と共にあった」を丁寧に紐解いていくと、天地創造の際にも共におられたようなことになってしまう。なぜだろうか?それは神が2000年前にイエス・キリストを人間にしこの世界にお送りくださったが、キリストはそれよりはるか以前から神のみもとにおられたということをヨハネは伝えている。そしてキリストこそいのちの源、人間を照らす光であるとも記している。続く「光は暗闇の中で」も自然現象の光と闇のことのみならず人生の道のことである。その中で最も明るい光がキリストである。そして「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」。肉は人間という意味であるが、ただ肉体のみならずすべてである。それを「受肉」という。人間の罪を許すために神はイエス・キリストとなられて私たちの間に住まわれた。今日はイエスをキリストとして迎えるクリスマス。心からイエスをキリストとしてお迎えしたい。

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「あいしあいなさい」コヘレト12:1 中村吉基

(子供祝福礼拝。お子さんと一緒の礼拝です)。F牧師の娘「るつ記」さんは、一生涯を日本人のために捧げたキュクリッヒ宣教師を小学生の頃から尊敬し、やがて大きくなってから外国人のために働く夢をかなえるべく外国で奉仕活動をしていた。大学卒業後フィリピンに留学し海岸で子供たちと水浴びをしていた際底流に巻き込まれた子供を助けるため亡くなってしまった。今日の聖書箇所は「互いに愛し合いなさい…友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」というイエス様の言葉である。愛し合うとは目の前にいる人を「たいせつにする」こと。自分のためだけに神様が下さっ命を使わないこと。自分のことだけ考えそうになったら「神さま」「イエスさま」ってお名前を呼んで、力をいただくこと。私達のそばで助けを必要としてる人がいるはずで、その人たちをたいせつにすることがイエス様の教えにある「愛し合うことにつながる。

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「神様のお弁当」 ヨハネ6:1〜15 久保彩奈

10月9日は、神学校日・伝道献身者奨励日ということで、日本聖書神学校の久保彩奈神学生に説教奉仕をいただきました。久保さんが責任者を務める野宿者支援活動に関するお話だったため、その活動を守る観点から説教は要約、また音声はなしのアップロードです。

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「最後まで」ヨハネ15:9-21  中村吉基 

日本キリスト教団が8月第1日曜日を平和聖日としてから約60年、この時だけ平和について考えればいいわけではなく常に「平和を作り出す者」としての行動が求められる。最後の晩餐の時、イエスは弟子たちを友と呼び、主イエスが選んでくださったことを語られる。弟子たちの中には、あるいは現代を生きる我々の中にも、自分からキリストを求めたと言うかもしれないが、逆の見方で見てみると簡単にそれを棄ててしまうことができる危険性をはらんでいる。本物の信仰は、いのちの造り主である神に委ね、すべて神の選びによるのだと信じられるどうかにかかっている。一人 では至難の業であるが、教会がある。一緒に信仰を育み「最後まで」光の中を歩んでいくのである。

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聖霊降臨節第8主日礼拝 2022/7/24

インターナショナルサンデー―—外国人の人権のために祈り、民族主義と平和を考える 本日の礼拝 旧約聖書:レビ記19:34新約聖書:エフェソの信徒への手紙2:14-22説 教:「あなたがたは神の家族です」宮島牧人(日本キリスト...

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「まことのぶどうの木に繋がって生きる」ヨハネ15:1-10 槙和彦

ヨハネによる福音書では直接弟子たちに語られたぶどうの木の譬え、イエスがぶどうの木で枝が弟子たち、手入れをする農夫が神である。2千年後を生きる我々も枝といっていいだろう。イエスは枝同士の関係については言及されていないが、枝同士の競争が起こるは自然であろう。しかし同じぶどうの木によって生きる対等な者同士であれば、敵を愛しなさいという難しい教えも希望がもらえるのではないだろうか。