ヨハネによる福音書一覧

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「最初の弟子たち」ヨハネ1:35−52 中村吉基

洗礼者ヨハネが「神の子羊」と言うこの方どんな方か、2人の弟子が主イエスを追う。するとイエスが振り返って「何を求めているのか」と尋ねる。そしてそのまま2人は、ほとんど面識のないイエスに従ってきた。次はペトロである。後に弟子たちのリーダー、教会の指導者となるが、彼の兄弟アンデレから「わたしたちはメシアに出会った」ときき、イエスのもとに馳せ参じた。その翌日はフィリポとナタナエルである。まず「わたしに従いなさい」とフィリポが招かれ「モーセが律法に記し、預言者たちも書いてある方に出会った」とナタナエルに伝える。聖書をよく知っているナタナエルは「ナザレか。ら何か良いものが出るだろうか」と答えるが、イエスと会い「あなたは神の子です」と告白する。今日の箇所だけではないが聖書の物語だけでは人々が主イエスにあった時の輝きやその言葉の力強さは伝わりにくい。私たちは「知らないもの」に対して恐怖を覚えるが主との出会うことによってそれはそれぞれの中で平安な出来事に変えられていくのである。

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同行二人(どうぎょうににん)ヨハネ1:29-34 中村吉基

洗礼者ヨハネがイエスを「世の罪を取り除く神の小羊だ」と言った時、イエスはまだ神の子について説かず奇跡も行っていない、ナザレに住む普通の男だった。それどころか家畜小屋に生まれ十字架で殺されている。人は家柄や裕福さや勤務先などが大切だと思いがちだが、神にはかけがえのない存在である。私たちは神がどんな使命を与えているかということに気がつくことである。イエスは当時重い皮膚病で「罪人」とされたような人々、共同体から追放された人々の「友」となられた。人間社会からから抹殺されていた人びとがイエスによって生きる力を回復させていったことを指して「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と表現した。当時は証言するには2人以上の証人が必要だった。イエスのしたことは、ヨハネに強く印象に残った。だからイエスは神の子だと「証しし続けてきた」のである。その主イエスのいのちをいただいている私たちであるが、現代において、この「世」の人びとの希望となり光となっているとはいい難いだろう。本当に主イエスの愛、いのちにつながっていくことによって、ヨハネのように「わたしはそれを見た」と真実の言葉を語ることが出来る。信仰と思いとことばと行いを新たにしたい。

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「先駆者」ヨハネ1:19-28 中村吉基

聖書にはイエスの誕生日は記されていない。古代教会でクリスマスが祝われるようになったのは4世紀からで、当時流行っていたミトラス教で冬至の12月25日を「不滅の太陽の誕生日」としていたが、キリスト教では「キリストこそまことの正義の太陽」としてこの日を主の降誕日とした。「その日」に「義の太陽」がこの地上の全てを癒すという預言者マラキの言葉もある。さて今日の新約の箇所は「ヨハネは一体誰か?」である。ローマ帝国の支配下で重税や差別に苦しんでいたユダヤの民がメシアを待ち望んでいた時に現れたのがヨハネである。荒れ野で神の言葉を受け、神に立ち返るようにヨルダン川で洗礼運動をしていたヨハネに人々は期待をもって質問するが、ヨハネは自分がメシアでもエリヤでもあの預言者(モーセと考えられる)でもなく「私は荒れ野で叫ぶ声」と答える。これはイザヤ書からの引用とされるが、ヨハネは「後から来られる方」「光(イエス)について証するために」神に遣わされた証し人だと名乗る。私たちも現代においてヨハネと同じ使命を神から頂いている。救いを求めている人に「光」であるキリストを伝え、神が主イエスを救い主としてお遣わしになったクリスマスを祝うことで、洗礼者ヨハネのように「光を証し」していこう。

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「神の言」列王記上22:6−17 中村吉基

北イスラエルの7代目の王アハブは400人もの預言者を集めてラモト・ギレアドをアラムから奪還する戦いをするかを尋ねる。しかしアハブには攻める気しかなく、そこにいた預言者たちも忖度してアハブの喜ぶ言葉を伝える。神の言ではなく人の言である。協力を依頼されたヨシャファト王は他に預言者がいないか尋ねる。そして「いつも災いばかり預言する」ミカヤが呼ばれる。使いのものに言い含められたミカヤは他の預言者と同じようなことを言うが、その後戦争に負け、死を迎えるということ伝える。「神の言」に聴くということは積極的に厳しい言葉にも耳を傾けなければならない。今、世界の指導者を見るときにも「強さ」を前面に掲げて力のない人たちを切り捨てていく現実がある。「平和を実現する」営みとは、神の言に真摯に聴いて、神の時に、神の世界に飛び込むことである。アハブ王が願った「人の言葉」ではなく、「神の言」に従っていきたい。

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「主が来られる」イザヤ52:1-10 中村吉基

今日から待降節、クランツのろうそくの1本目に火がともされた。クランツのろうそくにはそれぞれ意味があり、今日は「預言のろうそく」、「希望」を表している。キリストは旧約聖書に記されている預言の成就としてお生まれになった。2本目以降も「平和「喜び」「愛」を表しており、人間の姿となってきてくださったイエス・キリストからもたらされる。しかし今日の箇所のころは、希望というより絶望の中で大国バビロニアに捕囚され苦難の時期である。しかし解放が迫っている、神は人を見捨てることはない。ヘンデルの歌にもなったこの箇所は、神が人々のために動かれる希望の到来である。これは古のイスラエルだけではなく現代の私たち一人一人の無気力や絶望の深みから救い出してくださる。私たちは、その神の救いを伝え続ける共同体でありたい。

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「あなたがたを友と呼ぶ」ヨハネ15:12-17 中村吉基

今日の箇所は、最後の晩餐の際に弟子たちに話された「告別説教」と呼ばれているメッセージである。中で「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」とある。それは弟子のことだけではなく私たちのこともである。キリスト教徒の迫害の先頭に立ってパウロが復活の主に出会って回心し大伝道者となり、教会をたて各地に長い手紙を書いたのも、全てパウロという人が主イエスの「友」とされた、ということに起因している。私たちは(弟子たちも)「自分が主イエスを選んだ」と思いがちである。しかし今日の箇所には「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」ともある。信仰とは、神や主イエスを信じることも、また教会につながっていることも、すべて神の選びによるのだと信じられるどうかにかかっている。また「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」ともある。」と続く。この教えが実現するときに、復活された主イエスは今この時も私たちの中で生き続けてくださる。今日の箇所の直前の11節で「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜が満たされるためである」とあるが、これが主イエスの言いたかったことの集約ではないだろうか?いつも喜んで、その喜びがいつも満ち満ちているために、神は私たちを選び、そして友と呼んでくださる。このお招きに応えて、喜んで主をお迎えしよう。

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「ラザロ、出てきなさい」ヨハネ11:28-44 中村吉基

先週引き続きラザロである。ラザロの死後到着したイエスに姉妹のマリアは「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」という。マルタと同じである。しかしイエスは「もし信じるなら。神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言い、天を仰ぎ「周りにいる群衆のため」と祈り、「ラザロよ、出てきなさい」と言われた。すると、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていたラザロがでてきたのである。現代の私たちにとって「巻かれている」(言語では繋ぐ、縛るのような意味もある)というのはとても厄介である。ガラテヤの信徒への手紙5章1節でパウロが書いているように「「自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由にしてくださった」のである。ラザロはキリストによって巻かれていたものを取り払われた。これと同じように私たちも今日イエスはが名前を呼んで下さり、「出てきなさい」と、闇の中から光のあるところへと引き戻してくださる。病の中でも、失望の中でも、キリストがあの重い十字架を背負い、今この時も共に苦しんでくださっている。しかしマルタとマリアのように「主がいて下さったら、こうならなかったのに・・・」と不満を持ってしまっていないだろうか。主は今日も光の中を歩んでほしいと強く願い、「出てきなさい」という呼んでくださっている。

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「あなたを揺り動かす愛」ヨハネ11:1−27 中村吉基

私たちは死後お墓の中で不自由な生活を恐れるが毎日の生活の中での絶望もまた墓場の状態である。主イエスはその墓場から神が造られた素晴らしい世界へと引き戻してくれる。今日の箇所で、ラザロの病を聞いたイエスは2日間とどまりラザロは死んでしまい、マルタや他の人々は「もう少し早く居てくだされば・・・」と口にする。私たちの祈りが届かなかった時のようである。主イエスは神がお定めになった「時」をじっと待っていたのである。長い人生の中には計画どおりにいかないことがあるが神が自分のために何もしてくれないのではなく、神が働いてくださる時が用意されているからである。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか?」という言葉がある。今日も主イエスはこの問いを呼びかけておられる。「はい、信じます」と心から応答する私たちでありたい。

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「来なさい、そうすれば分かる」ヨハネ1:35-42 中村吉基

今日の箇所はとても単純に見えるが、とても素晴らしい出来事をたった20行足らずに押し込めてあるので、想像力を掻き立てて向き合わなければならない。ヨハネの「神の小羊」という信仰告白を見、イエスに従った弟子たち2人(ひとりはアンデレ)は従って行き、泊まっていた場所に留った。「来なさい、そうすれば分かる」(39節)というイエスの言葉は滞在場所を見せてたかったのではない。そのご性質やお人柄を通して指さす先の神を示してくださったのである。またこの2人もイエスの宿泊先ではなく、主ご自身を知りたかったのである。2人が主イエスのもとに泊まった時、何があったか定かではないが、アンデレはシモンに「わたしたちはメシア(中略)に出会った」といい、シモンを主イエスのもとに導く。この「泊まった」という言葉はぶどうの木の譬えの「わたしにつながっていなさい」と同じ動詞である。2人にイエスはつながってくださったのである。主イエスを心に宿した人は変えられていき、神の力が顕されていくのである。

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「イエスはキリスト」ヨハネ1:1-14 中村吉基

今日の箇所にある「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 この言は、初めに神と共にあった」を丁寧に紐解いていくと、天地創造の際にも共におられたようなことになってしまう。なぜだろうか?それは神が2000年前にイエス・キリストを人間にしこの世界にお送りくださったが、キリストはそれよりはるか以前から神のみもとにおられたということをヨハネは伝えている。そしてキリストこそいのちの源、人間を照らす光であるとも記している。続く「光は暗闇の中で」も自然現象の光と闇のことのみならず人生の道のことである。その中で最も明るい光がキリストである。そして「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」。肉は人間という意味であるが、ただ肉体のみならずすべてである。それを「受肉」という。人間の罪を許すために神はイエス・キリストとなられて私たちの間に住まわれた。今日はイエスをキリストとして迎えるクリスマス。心からイエスをキリストとしてお迎えしたい。