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「異なるものが互いに愛し合って一つになる」 ローマ5:1-5 ジェフリー・メンセンディーク

ペンテコステは聖霊によって私たちの心に愛が注がれた日であり、神様に愛されているがゆえに私たちは聖霊の勢いに押し出され歩みへと招かれる。キリスト教の名のもとにヘイトや偽り、暴力、排他主義、絶対主義が横行しているが、聖書の教える神様の愛に反している。今日の箇所にある4つの言葉平和、恵み、忍耐、聖霊を中心にみていきたい。1つ目は神様との間にある「平和」、命の尊さやその人らしさが神様の創造によるであり、尊厳性の根拠である。2つ目の「恵み」。咎のある人間であるが、それでも神は私たちをご自分との関係に招き入れられ、「神の栄光にあずかる希望」に向かって歩ませてくださる。3つ目は「忍耐」、ある時「異なるものが互いに愛し合って一つになる」と書いてある墓石を見た。この言葉ほど神様の愛の方向性を言い当てているものはない。人間の多様な考え方の違いを超えて「一つになる」。「異なる者」を理解し、また「異なる者」に理解される営みという「苦難」。パウロはよく知っていたし、キリスト者に伝えている。神様の平和と恵みによって忍耐する力を神は用意してくださっていて、それは神様の恵みに対する私たちの応答であり、忍耐の先には希望がある。その助け手が聖霊である。

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「心と思いを一つにして」使徒4:32-37 中村吉基

今日の箇所は教会初期の記録であるが、まだ教会ではなく「信じた人々の群れ」と書かれている。彼らはイエスキリストを信じ、無所有を是としていた。彼らには「大いなる力」(ダイナマイトの語源になったデュナミス)、つまり神の恵みがあった。それをもってキリストの復活を宣べ伝えていたのである。また使徒たちは人々から非常に好意を持たれていたとあるが、「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった」と結んで読んだ方がいいだろう。彼らは土地や家うぃ売って代金を持ち寄り共同体各々に分配された」という。カルト教団に似た例があるが、所有するとそういう危険を犯してしまう弱さもあると覚えておかねばならない。しかし当時の教会では申命記にある「貧しい者はいなくなる」という神の約束が実現されていた。「ささげない」と言われた時、不要な物や余裕のあるものから出していないだろうか?神は独り子主イエスを出された。最初のキリスト者たちは神の模範に倣って、神の愛を実現していた。自分の前にいる様々な困難にある人に自然に愛の行いをすることができた。私たちの教会もそれに倣っていきたい。

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「誰に従うのか」使徒4:1-22 中村吉基

教会の最初期の宣教は困難を極めた。今日の場面は「裁判」である。復活を信じないサドカイ派や神殿の祭司たち、権力のある神殿守衛長は、「主イエスは甦られた」と宣べ、門の前の足の不自由な男を癒し、人々の共感を得て勢力をのばしているペトロとヨハネを、ユダヤ教徒を惑わせる行動ととり牢にいれ裁判にかけた。その場でペトロは聖霊に満ち溢れ、自分たち癒しの働きは主イエス・キリストの名によるもの、つまり、主イエスを死から甦らせた神の力と、その主イエスをキリストと信じる信仰によってこの癒しはもたらされたと答え、続けて、「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」「この方こそ、/『あなたがた家を建てる者に捨てられたが、/隅の親石となった石』/です。・・・」と続けた。従うのが神なのか人なのかは大変に重要なことである。イエスが十字架にかけられた際に「私は知らない」と言ったペトロが「神に従う」ことを選択してるのである。日本でも第2次世界大戦時にギリギリの選択を余儀なくされた。人間社会では軽蔑され捨てらたイエスキリストが教会の「かなめ石」とされたのである。このかなめ石の主である主イエスを仰いでいきたい