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「起きよ!」 エフェソ5:8-14 中村吉基

神を知らないまま生きていいた「暗闇」の者がキリストにより神を知り「光」となるとパウロは表現する。光は単なる明るさではなくキリストのことである。パウロは「光の子として歩みなさい」と勧める。神は分け隔てなくすべての人をキリストの救いに招いてくださる。それは突然立派な人になれるわけでなく、神に愛される者に生まれ変わるということである。やがて来る死に不安を抱くことがあるが、死は終わりではなく神のもとへの帰還である。私たちは地上で成し遂げる役割があり、神のもとへと帰る。今は亡き人たちはすでに神の元で安らぎのうちにある。再会を胸に地上で光の子として歩もう

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「神の愛は突然に」使徒2:1-13中村吉基

今日はペンテコステ。弟子たちがエルサレムに集まっていた時、激しい風が吹いてくる音がして炎のような下が現れその上にとどまりそれぞれ“霊”に満たされ、異なる国々の「ことば」で語り出した。巡礼のために集まっていたユダヤ人たちは故郷の言葉を聞いて驚いた。これは奇跡であり教会の始まりとされているが、「ことばの壁を越えて、人が人と出会い直す出来事」として受け取りたい。聖霊の働きによって弟子たちが話す「ことば」は分断されていた人間関係の壁を神の力によって破られた。親しみのない「ことば」や文化は不安になることがある。しかしペンテコステに生まれた教会は多様性に満ちた場だった。しかし人は固有の「ことば」の中に生きている。この日聖霊は弟子たちを突き動かし他者に向かってそれぞれの「ことば」で福音を語らせた。神と人と主イエスが繋がり直すため、違いをなくすためではんく「違いのまま、共にある」ためである。私たちが他者の「ことば」に耳を傾け自分の「ことば」で応えていく中に神の霊が生きて働かれるよう祈る。

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「共に歩まれるイエス」ルカ24:44-53 中村吉基

今日はキリストの昇天日、聖書では福音書から言行録をつなぐ場面である。弟子たちは天に上げられるイエスを仰ぎ見た後大喜びでエルサレムに帰ったとある。絶望やあきらめの中にあった復活前の弟子たちと随分様子が違う。イエスの昇天はただ生涯を終え天にあがったということではなく、復活された主イエスが天の栄光のうちに上げられ、今度は聖霊を遣わし、共に生きておられるということである。昇天は新しい出発であった。イエスは手を上げて祝福しながら天に上げられたともある。その手にはまだ十字架の深い傷があったであろうがそのみ腕をもって弟子たちを祝福した。来週は聖霊降臨を祝うペンテコステで、私たちに聖霊が与えられることを望み1週間をすごそう。

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昇天後主日礼拝 2025/06/01

本日の礼拝 旧約聖書:エレミヤ10:1-10a 新約聖書:ルカによる福音書24:44-53 説教:「共に歩まれるイエス」中村吉基 本日の集会 教会学校:9:00(ティーンズ科第2・第4主日9:50) ...

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「わたしたちの祈り」マタイ6:1-15 中村吉基

どの教会の礼拝においても「主イエスが教えてくださった祈り」として祈られている「主の祈り」、原始教会ではクリスチャンになるものだけが知ることを許された「秘密の祈り」だった。主の祈りでは「我ら(私たち)」という語である。プロテスタントでは祈祷書を用いず自由祈祷が通例であるがともすれば自己中心的な祈りになってしまう。しかし主の祈りは「私個人の祈り」ではなく「私たちの祈り」すなわち共同の祈りである。中でも「我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」では他者を赦す前に自分が赦されることの必要性が語られている。「赦す」ことは簡単ではない。しかし主イエスは人間の恨みや苦しみをすべて引き受け十字架の死を遂げられた。主の祈りを通して「私たち」が「赦され、赦す」ものへ変えられるようになりたい。