礼拝説教一覧

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「常に喜びなさい」フィリピ4:4-9 中村吉基

好きな聖句として「常に喜んでいなさい」を挙げる人が多いが今日の箇所では冒頭に「主において」とある。神を、キリストを信じてという意味である。生きているとつらいこともあり喜んでばかりもいられないが、神は喜びに変えてくださるお方だということは紛れもない事実である。「喜べない現実」を乗り越えることができたときに人間としての幅がより広く深くされているのである。イエス・キリストはこのような世界に2000年前においでくださった。私たちが希望を、平和を喜びを、そして神の愛を得るためにはこのイエス・キリストを通らずして実現することはない。それを信じてイエス様を仰ぎ見ることが主において常に喜ぶことである。

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「正義の神は私たちと共に」イザヤ61:1~11 中村吉基

今日の箇所の預言者は通称を第3イザヤといい、イスラエルがバビロン捕囚から解放され破壊された神殿を再建した頃に活動した。無残に破壊された神殿を前に失意のどん底にあった人々に第3イザヤは希望をもって神の言葉を取り次いでいった。「失意の中、力を失くし、絶望し、嘆いている人に」「打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人に自由を/つながれている人には解放を告知」する力を持った「知らせ」である。私たちも苦難の中にあり、時には報復も考えてしまうときもある。しかし神は苦難に喜んで与えているのではなく、私たちがどう対処するかをご覧になっている。神は私たちを高く評価し日々私たちを上昇させようとされている。待降節ははやる心を抑えて待ち、自らの信仰を省みる時である。神にすべて委ねよう。ガラテヤの信徒への手紙でパウロがこう言う「たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります」

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「先が見えないような時にも」イザヤ2:1-5 中村吉基

世界が終わる日、だれもがエルサレムに行って神の神殿で礼拝したくなるとイザヤは言う。天と地を結ぶ場所のエルサレムで神さまが私たちに備えられる「道」を授かり「剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする」、つまり戦争はなくなる。これが神の支配する世界である。これが信じられるだろうか?神さまは私たちの後ろ盾・導き手として道を示してくださる。何も恐れることなく与えられた道で神さまに従っていけばいい。待降節第一主日は希望の日曜日とよばれる。暗い絶望の中にあっても闇の中に輝く神さまの愛の光には「確かさ」がある。私たちがすべきことは、苦難の中にあっても心を高く上げて、まなざしを天に向けて、神さまを仰ぐことである。

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「それでも人は立ち上がる」ミカ書7:1〜7 中村吉基

預言者ミカは、神の言葉を聞かない人々、役人、裁判官、友人家族を見て「正しい人はいなくなった」と苦悩していた。しかし苦しむ彼は「しかし、わたしは主を仰ぎ、わが救いの神を待つ。わが神は、わたしの願いを聞かれる」と神を信じてゆだねる。私たちもうまくいかず八方塞がりになることがあるが、自分で抱え込み自分で解決できない場合もある。つらい目にあった時「神の試練」なのか「悪の誘惑」なのか見分けるのは難しい。主の祈りに「わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください」とあるように、聖霊を信頼して、聖霊により頼むことですべてを乗り越えることができることを信じることである。「神のなされることは皆その時にかなって美しい」とと思える日が必ず来る。

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「言い訳を捨てる」申命記18:15-22 中村吉基

モーセは言い訳の達人というわけではないが、言い訳が相手をまた神をどれほど悲しませるかを今日の箇所を通して考えてみたい。モーセは神がイスラエルの民を救うために立てられ、み言葉の伝達者にして忠実であることが求められた。単に伝えるだけではなく」従わない者があるならば神はその責任を追及する¥とある。とても厳しい。しかしクリスチャンとは主イエスが歩かれた荊の道に続いていくものである。そこに言い訳や言い逃れができない。道を歩む上で躊躇や苦悩を覚えてしまうが、聖霊がともにいてくださる。そのような歩みのなかに大きな恵みがあるものである。言い訳をしても神はすべてご存じだ。クリスマスにむけて神が私たちに贈ってくださった救い主イエスを見上げて歩みたい。

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「かみさまのもとにいる幸せ」ルカ15:11-31 なかむらよしき

今日は子ども祝福礼拝、子供も大人も皆で神を賛美します。イエス様は今日の箇所でこんなお話をします。「お金をもらった次男が遊びおちぶれて帰ってきたが父は彼のために無事に帰ってきたお祝いをした。それをみた長男は、自分は真面目に働いてきたのに納得できないというが、父親は長男を認め説得し、かつ、弟の帰還を喜んでほしいという。このたとえ話の父親は神様。神様は立派な人間だけを愛するのではなく、どんな時も誰をも、どんな失敗をしても優しい心で許して下さるのである。

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「神の言葉に委ねる」創12:1-9 中村吉基

「あなたは生まれ故郷、父の家を離れてわたしが示す地に行きなさい」という神の声をきいてアブラハムが実行したのは彼が75歳の時であった。彼は無鉄砲であったのではない、ひたすら神の言葉に従うと決心していたのである。彼の神さまに委ねて生きる姿に学ぶべきである。召命とは「神が自分に何を望んでいるのか」を考えることだが、それを応えて従うことが献身である。私たちの内面は「執着」や「安定」を求めてしまいがちであるが、神さまは私たちを呼んでくださっている。神さまは私たちに必要なものをすべて備えてくださっていることを信じてみ言葉を信じ、神さまが示す地へ行けるようにしたい。

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「宗教改革とエキュメニズム」ガラテヤ3:26-28 藤原佐和子

エキュニズムは「教会の一致」を目指す運動と言われるが、イエスの祈りに共鳴する信仰運動であり分断に取り組むことが特徴である。宗教改革も分断であるが、宗教改革運動のモットーは「教会は絶えず改革し続ける」というものであった。16世紀に福音の理解をめぐって分裂したカトリックとルターはその後20世紀まで互いに無関心であった。1960年代から対話が始まり1987年に新共同訳聖書として実り、1999年「義認の教理に関する共同宣言」としてもはやお互いを断罪しないと宣言する。宗教記念改革日は16世紀の分断からその後の一致、これからの改革を思い描く日、イエスの語る「神の国」のヴィジョンを、少しづつ私たちが働きを担い、神を信頼することがたえざる改革のカギとなる。

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「わたしがあなたと共にいる」エレミヤ1:4-8 中村吉基

預言者エレミヤは神から呼びかけられたとき若者であることなど理由に断る。しかし神は「わたしがあなたと共にいて必ず救い出す」と約束される。私たちが困難にあっても欠けたとことがあっても「神さまがともにいてくださる」それがもっとも幸福な状態である。実際のエレミヤは一見神様に守られてるようには思えないが思わぬ形でおられた。私たちの恐れや嘆きも神さまが共にいてくださることを信じて歩もう