礼拝説教一覧

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「違う、そうじゃない」マルコ12:38-44 中村吉基

今日の箇所ではえらぶる律法学者と生活費すべてをささげるやもめの対比がなされている。ことさらに着飾り宴会では上座に着く律法学者は「人からどう見られるか」に心を奪われている。一方で少ない額ではあるが生活費すべてをささげたやもめをイエスは「だれよりもたくさん入れた」と高く評価される。この話は信仰美談につながりがちであるが、それは追い詰められてそうせざるを得なかったのかという見方もできる。40節にある「やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈り」という律法学者の批判、そしてその後13章の「神殿の崩壊の予告」をあわせて読めば神殿体制の不正と搾取を告発する文脈とも読める。イエスの神殿の崩壊の予言は紀元70年のユダヤ戦争で成就する。神は不正を許さない。私たちは聖書にある弱い人の声を意識して読んでいきたい

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「光である神」ヨハネI1:5-10 廣石 望

本日の礼拝は教会創立28周年、世界聖餐日、世界宣教の日の三つを同時に記念している。私たちの教派はプロテスタント教会のひとつとして世界の諸教会と交流関係にある。そのエキュメニカルな統合性の象徴として、他教派の人々と同じ日曜日に聖餐式を祝う。そして代々木上原教会はそれ自体が教会合同によって成立した共同体なのである。 神は光であり闇はない。私たちは罪を否定せず、告白し、赦しを受けてこそ光の中を歩む。互いに愛し合うとき、神との真の交わりが実現する。昨年、南インドとドイツで多様な教会や神学生たちと出会い、信仰のあり方と教会の歴史を見つめ直した。光である神が私たちを結び、罪の告白と赦しの中で真の交わりが与えられるだろう。

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「人を分け隔てしない神」ヤコブ2:1-13中村吉基

今日の箇所でヤコブは教会内で貧富の差で人を分け隔てすることをたとえにあげている。当時はよくあったのだろう。しかし現代でもそれはある。人をえこひいきすること(差別)は神の御心に反する。神が愛され、選ばれるのは貧しい人達である。ほかの誰かを憐れむことができない人は、自分自身も神に憐れまれることはない。自分本位ではなく、「相手本位」だったイエスさまの姿に倣い教会を形成していこう

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「固く結び合いなさい」コリント1I:10-17中村吉基

分裂していたコリント教会にむけて書いたパウロの書簡が今日の箇所である。人は教えを受けたものを尊重してしまうが、信仰は指導者に対してあるべきではない。パウロは自分の働きは洗礼の数ではなく福音を伝える事、十字架の復活と恵みが教会の中心なのだと書く。現代でもこのような派閥や対立が生まれがちであるが、意見や立場の違いを超えて互いに支え合い、十字架のもとで一致する群れである必要がある。そしてその一致は我々の努力ではなく神の賜物である。

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「前のものを見る」フィリピ3:7-14 中村吉基

齢を重ねることは神さまからの恵みであることを憶えて今年から始めた「恵老祝福礼拝」。年齢を重ねると「もう自分の働きは終わった」と思うが、聖書は、人生の晩年こそ新しい仕方で神が働かれる時である、と語る。今日の聖書箇所のパウロの手紙では、前を向くと書かれているが、彼は宣教故に牢獄で死を間近に見つめていた。しかし信仰の歩みには終わりがない。神は人生のどの時期にも私たちを用いて下さる。今日の礼拝にあたり年長者の歩みに感謝し教会にとってかけがえのない力であることを忘れず、ともにキリストを知るというゴールにむけて歩み続ける。

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「希望をもって歩む」ローマ8:28-30 中村吉基

今日の箇所では、神がその計画に従って私たちをあらかじめ選び、御子に似た者とし、使命を与えてくださるとある。善と悪がせめぎあうこの世で、神が「善きこと」に向けて導いてくださると信じる者は希望をもって歩むことができる。差別の対象であった同性愛者でありながら政治家として活躍し、マイノリティの希望となりながら最後には殺されてしまったハーヴェイ・ミルクはよく「人は希望がなければ生きるに値しない」と語った。神は絶えず希望を与えてくださる。その希望を胸に進むことが幸せである。

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「1000の言葉より 一度の寄り添い」マタイ9:18-26 中村吉基

イエスを信じ、苦しい病を癒された者、死から甦った娘、イエスはすぐに彼らを癒した。そしてそれを見学し騒いでいる群衆を外に出した。イエスは同情なさり、騒いでいる群衆は反対である。私たちはイエスのように奇跡を起こすことはできないが、イエスのように人の話を聞くことはできる。本来「同情することのできる者」として神に造られている。同情しあい愛し合うことは、神さまの愛を行うチャンスと言える。

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「救う方がシオンから」ローマ11:25-36廣石 望

パウロは現代イスラエルのことを当然知らないが、ローマ書簡を通して現在をとらえる眼差しがどうあるべきかを考えたい。この中で救いとは4つあると示す。〈律法の行為による救い〉、〈律法なしの義認〉、〈変貌による救い〉、そして今日の箇所である〈選びによる救い〉である。パウロは伝道によって集まった異邦人に神殿祭儀を解放することでイスラエルの不信を取り除くと夢見ていたのかもしれない。神の憐れみは人間の信仰ではなく神が中心なのである。そういう意味で現在のシオニズムとパウロの考えは違う。私たちが平和を求めるなら個別の内的確信に基づきその限界を超えなければならないことをパウロは示唆しているように思う。

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「わたしの名によって」ヨハネ16:23-33 廣石 望

8月6日、広島平和記念式典に出席した。会場近くの原爆供養塔がある。今日の箇所では処刑されたイエスが神によって復活したという信仰が生じた際に死者と聖者はどのような関係にあったのかという問いがある。この福音書は復活と聖霊への確信がある。故に主イエスの名によって祈り、神と信仰共同体の間で直接的な関係が可能となり、神とイエスそして信仰者の間に「愛する」という関係が生じている。しかし戦争や差別の場にあるとき、キリストと共にあるとはいいがたい。しかしイエスはすでに世に勝っており、私たちが礼拝で言う「主の平和」は苦難の只中にあっても実現されている平和である。これは、そのつど勝ち取られる必要がある

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「先の見えない時にも」イザヤ2:1-5 中村吉基

戦後80年目の夏、改めて「平和」を考える。毎週礼拝できるのも平和である。今日の聖書箇所のイザヤ書には「完全な平和」がある。戦いの道具がいのちを育てる道具に神によって変えられる素晴らしい世界である。イエスが十字架にかけられる直前に弟子が敵を攻撃しようとしたときも「剣をとるものは剣で滅びる」とイエスは弟子をたしなめた。私たちの力ではすぐに世界を変えることはできないがまわりにある小さな平和を大切にすることはできる。たとえ先が見えなくても神様はともにいてくださることを信じ、平和の道を信じて歩こう