待降節第3(降誕前第2)主日礼拝 2025/12/14
本日の礼拝 旧約聖書:サムエル記上2:1-10 新約聖書:ルカによる福音書1:39-56 説教:「神の恵みを身に帯びて」中村吉基 本日の集会 教会学校:9:00(ティーンズ科第2・第4主日9:50) ...
Yoyogi-Uehara Church
本日の礼拝 旧約聖書:サムエル記上2:1-10 新約聖書:ルカによる福音書1:39-56 説教:「神の恵みを身に帯びて」中村吉基 本日の集会 教会学校:9:00(ティーンズ科第2・第4主日9:50) ...
今日は待降節第2主日、平和の主日。今日の箇所では洗礼者ヨハネは荒れ野で悔い改めの洗礼を宣べ伝え、主の道を整える役割を担った。当時の荒れ野とは絶望の場所であったが、そこに神は道を整えてくださった。悔い改めとは反省改善だけではなく、神に立ち返る、我々の存在を神に向きなおすことである。心に主の道を整えることなのである。ただのクリスマスではなく、このことを見つめながら待降節を歩みたい
イザヤ書49:14-16;マルコによる福音書14:3-9 準備中です。もう少々お待ちください
モーセはエジプトの王室で育ちながら、ヘブライ人の奴隷状態を苦々しく思い、ある日ついに同胞を救おうとしてエジプト人を殺してしまう。またそのことが知られ受け入れられていないことを知ると逃亡生活にはいる。逃亡先では結婚をするものの孤独感がある。やがてファラオがなくなると、イスラエルの民には大きな失望が待っている。しかしどんな時も神は見捨てることはなかった。神は忘れていないがイスラエルが思い出すまで待ってくださっていた。人と違って神はその名を呼ぶ人には応えてくださる。
神がイスラエルの民を解放することを伝えるためにモーセを選ぶ。モーセは困難の中にあり自分の弱さを理由にためらうが、その弱さこそが神に選ばれた理由である。人の力ではなく神の恵みによって救いは成就する。私たちもまた、聖霊の助けを祈り求めながら、神が私たちを通して働いてくださることを信じ、主の導きに従って歩むものでありたい。
子ども祝福礼拝のため、子どもと大人合同の礼拝。「きみのかわりはどこにもいない」いのちのことば社を読みお話が続く。 小さな羊が迷子になってこわくてさみしい思いをした時、羊飼いは「いなくてもいいか」とは言わず、一生けんめいに探し、見つけたら喜んで抱きしめました。イエスさまは、この羊飼いのように神さまも一人ひとりを大切にし、「きみのかわりはどこにもいない」と思っておられると教えています。今日の子ども祝福礼拝は、その神さまの愛をお祝いする日です。100匹のうち1匹がみつからなくなった羊飼いはその羊(ワンダー)をあきらめずに探し、探したのちはお祝いまでする。それは神さまと同じ、世界に何十億の人がいても、ひとりひとりが特別な存在、「きみのかわりはだれもいない」のである。今日の子ども祝福礼拝はそんな神様の思いをお祝いする日です。
創世記のカインとアベルは神に受け入れられた者と退けられた者である。カインは弟をねたみ殺し神をあざむこうとする。そんなカインを神は見捨なかった。私たちも祈りがかなえられないと、失望することがある。神を自分の利益のために利用するのではなく、隣人と互いに支え合い生きていくことを神は望んでおられる。
1517年10月31日、マルティンルター「95か条の提題」を掲げたことに始まる宗教改革を記念する礼拝である。贖宥状によって腐敗した教会に「真理」を問いかけたものである。今日の聖書箇所「真理はあなたたちを自由にする」は、イエスの言葉にとどまる者が真理と自由を得ることを示す。聖書が語る自由とは自分の固定概念から解放されること、「神の真理」と「神の愛」に裏付けられたものである。プロテスタントとは「抗議する者」を意味であるが、それは自分自身を改革し変革し続ける者という意味ある。ともに自分たちの改革を続け、真理に裏付けされた自由を求めていこう。
創世記の天地創造は第七の日に完成され、神が安息なさったとある。神にとっては働くばかりではなく休まれる。安息も神聖なことと聖書は教える。安息日は6日の仕事のプレゼントではなく、働くことをやめ神に心を向ける日なのである。そして新しい力をいただき、レクリエーション(再創造)される。神は生き生きとしている姿でいることをお望みであり、神を喜ばせる生き方は人生の最大の目的である。
今日の箇所ではえらぶる律法学者と生活費すべてをささげるやもめの対比がなされている。ことさらに着飾り宴会では上座に着く律法学者は「人からどう見られるか」に心を奪われている。一方で少ない額ではあるが生活費すべてをささげたやもめをイエスは「だれよりもたくさん入れた」と高く評価される。この話は信仰美談につながりがちであるが、それは追い詰められてそうせざるを得なかったのかという見方もできる。40節にある「やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈り」という律法学者の批判、そしてその後13章の「神殿の崩壊の予告」をあわせて読めば神殿体制の不正と搾取を告発する文脈とも読める。イエスの神殿の崩壊の予言は紀元70年のユダヤ戦争で成就する。神は不正を許さない。私たちは聖書にある弱い人の声を意識して読んでいきたい