礼拝説教一覧

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「神は待っておられる」出2:11-25 中村吉基

モーセはエジプトの王室で育ちながら、ヘブライ人の奴隷状態を苦々しく思い、ある日ついに同胞を救おうとしてエジプト人を殺してしまう。またそのことが知られ受け入れられていないことを知ると逃亡生活にはいる。逃亡先では結婚をするものの孤独感がある。やがてファラオがなくなると、イスラエルの民には大きな失望が待っている。しかしどんな時も神は見捨てることはなかった。神は忘れていないがイスラエルが思い出すまで待ってくださっていた。人と違って神はその名を呼ぶ人には応えてくださる。

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「主に導かれて」出6:6-7 大島泰江

神がイスラエルの民を解放することを伝えるためにモーセを選ぶ。モーセは困難の中にあり自分の弱さを理由にためらうが、その弱さこそが神に選ばれた理由である。人の力ではなく神の恵みによって救いは成就する。私たちもまた、聖霊の助けを祈り求めながら、神が私たちを通して働いてくださることを信じ、主の導きに従って歩むものでありたい。

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「きみのかわりはどこにもいない」ルカ15:1-7 中村吉基

子ども祝福礼拝のため、子どもと大人合同の礼拝。「きみのかわりはどこにもいない」いのちのことば社を読みお話が続く。 小さな羊が迷子になってこわくてさみしい思いをした時、羊飼いは「いなくてもいいか」とは言わず、一生けんめいに探し、見つけたら喜んで抱きしめました。イエスさまは、この羊飼いのように神さまも一人ひとりを大切にし、「きみのかわりはどこにもいない」と思っておられると教えています。今日の子ども祝福礼拝は、その神さまの愛をお祝いする日です。100匹のうち1匹がみつからなくなった羊飼いはその羊(ワンダー)をあきらめずに探し、探したのちはお祝いまでする。それは神さまと同じ、世界に何十億の人がいても、ひとりひとりが特別な存在、「きみのかわりはだれもいない」のである。今日の子ども祝福礼拝はそんな神様の思いをお祝いする日です。

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「隣る人(となるひと)」創世記4:1-16 中村吉基

創世記のカインとアベルは神に受け入れられた者と退けられた者である。カインは弟をねたみ殺し神をあざむこうとする。そんなカインを神は見捨なかった。私たちも祈りがかなえられないと、失望することがある。神を自分の利益のために利用するのではなく、隣人と互いに支え合い生きていくことを神は望んでおられる。

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「改革し続ける道」ヨハネ8:31-36 浦上充

1517年10月31日、マルティンルター「95か条の提題」を掲げたことに始まる宗教改革を記念する礼拝である。贖宥状によって腐敗した教会に「真理」を問いかけたものである。今日の聖書箇所「真理はあなたたちを自由にする」は、イエスの言葉にとどまる者が真理と自由を得ることを示す。聖書が語る自由とは自分の固定概念から解放されること、「神の真理」と「神の愛」に裏付けられたものである。プロテスタントとは「抗議する者」を意味であるが、それは自分自身を改革し変革し続ける者という意味ある。ともに自分たちの改革を続け、真理に裏付けされた自由を求めていこう。

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「神の喜びのために」創世記2:1-4前半 中村吉基

創世記の天地創造は第七の日に完成され、神が安息なさったとある。神にとっては働くばかりではなく休まれる。安息も神聖なことと聖書は教える。安息日は6日の仕事のプレゼントではなく、働くことをやめ神に心を向ける日なのである。そして新しい力をいただき、レクリエーション(再創造)される。神は生き生きとしている姿でいることをお望みであり、神を喜ばせる生き方は人生の最大の目的である。

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「違う、そうじゃない」マルコ12:38-44 中村吉基

今日の箇所ではえらぶる律法学者と生活費すべてをささげるやもめの対比がなされている。ことさらに着飾り宴会では上座に着く律法学者は「人からどう見られるか」に心を奪われている。一方で少ない額ではあるが生活費すべてをささげたやもめをイエスは「だれよりもたくさん入れた」と高く評価される。この話は信仰美談につながりがちであるが、それは追い詰められてそうせざるを得なかったのかという見方もできる。40節にある「やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈り」という律法学者の批判、そしてその後13章の「神殿の崩壊の予告」をあわせて読めば神殿体制の不正と搾取を告発する文脈とも読める。イエスの神殿の崩壊の予言は紀元70年のユダヤ戦争で成就する。神は不正を許さない。私たちは聖書にある弱い人の声を意識して読んでいきたい

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「光である神」ヨハネI1:5-10 廣石 望

本日の礼拝は教会創立28周年、世界聖餐日、世界宣教の日の三つを同時に記念している。私たちの教派はプロテスタント教会のひとつとして世界の諸教会と交流関係にある。そのエキュメニカルな統合性の象徴として、他教派の人々と同じ日曜日に聖餐式を祝う。そして代々木上原教会はそれ自体が教会合同によって成立した共同体なのである。 神は光であり闇はない。私たちは罪を否定せず、告白し、赦しを受けてこそ光の中を歩む。互いに愛し合うとき、神との真の交わりが実現する。昨年、南インドとドイツで多様な教会や神学生たちと出会い、信仰のあり方と教会の歴史を見つめ直した。光である神が私たちを結び、罪の告白と赦しの中で真の交わりが与えられるだろう。

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「人を分け隔てしない神」ヤコブ2:1-13中村吉基

今日の箇所でヤコブは教会内で貧富の差で人を分け隔てすることをたとえにあげている。当時はよくあったのだろう。しかし現代でもそれはある。人をえこひいきすること(差別)は神の御心に反する。神が愛され、選ばれるのは貧しい人達である。ほかの誰かを憐れむことができない人は、自分自身も神に憐れまれることはない。自分本位ではなく、「相手本位」だったイエスさまの姿に倣い教会を形成していこう

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「固く結び合いなさい」コリント1I:10-17中村吉基

分裂していたコリント教会にむけて書いたパウロの書簡が今日の箇所である。人は教えを受けたものを尊重してしまうが、信仰は指導者に対してあるべきではない。パウロは自分の働きは洗礼の数ではなく福音を伝える事、十字架の復活と恵みが教会の中心なのだと書く。現代でもこのような派閥や対立が生まれがちであるが、意見や立場の違いを超えて互いに支え合い、十字架のもとで一致する群れである必要がある。そしてその一致は我々の努力ではなく神の賜物である。