「癒し手となる力の授与 」マタイ10:1~4 陶山義雄
マタイの福音書による12弟子への使徒職伝授と派遣「医者を必要とするのは丈夫な人ではなく病人である」。ガリラヤの漁師や徴税人がイエスにすぐに従ったのか福音書では説明はないが、直ちに弟子になり、癒されるものが癒し手となるために使徒となった。
Yoyogi-Uehara Church
マタイの福音書による12弟子への使徒職伝授と派遣「医者を必要とするのは丈夫な人ではなく病人である」。ガリラヤの漁師や徴税人がイエスにすぐに従ったのか福音書では説明はないが、直ちに弟子になり、癒されるものが癒し手となるために使徒となった。
山上の説教のあと、イエスがしてこられた働きの総まとめとマタイによる福音書で読む奇跡物語の読み方。イエスが民衆に向かう姿勢を通して託された教会の働き
ルカによる福音書における「貧しい人は幸いである」は他の福音書と印象が違います。山上の説教に対峙して「平地の説教」「山麓の説教」と呼ばれる今日の箇所で、イエス様が平地で何をもって「神の国はあなたがたのもの」を宣言なさったかを考えます。
そこに突然主イエスが現れてこう言いました。「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」。ペトロたちからすれば、この見知らぬ男がやってきて唐突に…ガリラヤ湖のことも、風の状態も、魚の習性もペトロたちにはよく判っていたはずなのです。それでもペトロは言いました。「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」(5節)
美味しいぶどうを豊かに収穫するために、思い切って枝葉を切ることがあります。花も同じですね。チューリップでもカサブランカでも、良い球根にするために、花が咲いたところで切ってしまいます。私たち素人が見るとせっかく花を咲かせたのにもったいないと…農園の主人である神は、私たちを放っておくことはありません…良い実を結ぶために、せっかく育ってきた枝葉をバッサリ切ってしまうのです。
日曜日ごとに集まって礼拝を捧げ、その中でみ言葉に聴いています。そのことにどんな意味があるのでしょうか。聖書は歴史を知るための書として、イエス・キリストという人物が2000年前に「存在していた」ことを知るために、このような営みを繰り返しているのでしょうか。そうではありません。これは私たちにとっての「ニュース」、現実のこととして…
ガリラヤのカナというところで婚礼があり、その場で主イエスが水をぶどう酒に変えるという奇跡…宴たけなわになったころ、準備されていたぶどう酒が飲み尽くされてなくなりかけていました。パーティーのお手伝いをしていた母マリアは主イエスに神の子としての力を顕して、この窮地を切り抜けさせてくれるように頼みました…主イエスの返事は、何か冷たい感じがします…
イエス・キリストはおおよそ30歳ごろに宣教活動に入られました。まず主イエスがなさったのは当時、ヨルダン川の辺りで洗礼運動を繰り広げていたヨハネから洗礼を受けることでした…私たちが受けた洗礼の意義を考え、またこれから洗礼を受けようとする人には、洗礼の意義に加えて、クリスチャンとして生きることはどういう道なのか、ということを…
今日私たちに届けられた聖書の言葉は、今年の「日々の聖句」(ローズンゲン)の1月の聖句「イエス・キリストは言う。来てごらんなさい」(39節)に掲げられているものです。シモンという男が、兄弟のアンデレに連れられて、主イエスのもとにやってきました。主イエスは彼を見て、「ケファ」と呼ぶことにされたのです。これは「岩」という意味です。日本語で言ったら「巌」さんなどといったところでしょうか…
2021年までの説教(文章および音声)は以下からご覧ください。⇒ 礼拝説教集 1996~2021