「悪に立ち向かう」マルコ1:21-28 中村吉基
今日の箇所でイエスはカルファナウムの会堂で教え始めたが、その内容ではなくその在り方に驚かれたと伝えている。たくさんの規則によって人を縛り権威的にふるまっていた律法学者たちとは別の方法で、権威を示された。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という言葉に込められたメッセージは弱くされている人々への新しい権威である。現代の私達の内外にある悪にむけての強いメッセージでもある。
Yoyogi-Uehara Church
今日の箇所でイエスはカルファナウムの会堂で教え始めたが、その内容ではなくその在り方に驚かれたと伝えている。たくさんの規則によって人を縛り権威的にふるまっていた律法学者たちとは別の方法で、権威を示された。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という言葉に込められたメッセージは弱くされている人々への新しい権威である。現代の私達の内外にある悪にむけての強いメッセージでもある。
地球環境の問題を祈り、考える アース•サンデー礼拝として北柏めぐみ教会から金澤正善牧師を招いてのお話。1970年代のローマクラブのレポートでは人口や農業、食料、資源等のシミュレーションから2000年代半ばに成長の限界が来るという結果だった。しかし今の世界をみてみると今世紀いっぱいもつのか不安になるほどである。創世記では神が自ら作った世界を極めて良しとされた。今はその状態ではないが「元の完全な状態に戻す」つまり「シャローム」が必要である。
軽蔑と疑惑の対象の地ナザレで育ったイエスが洗礼者ヨハネから洗礼をうけた時に新しい時、つまり火の聖霊の洗礼を受けて救われる道が開かれた。神の子でありながら人と同じように洗礼をうけたことは人間と同じように歩まれたイエスの姿勢をよくあらわしている、また天からきこえた「私の心にかなう者」という言葉も神の祝福がわかる。私たち洗礼を振り返り自分の置かれた場所から進み出ていくことが必要だろう、神は私たちにも「心に適う者」と言ってくださる。
すっかり正月であるが、教会では公現日までクリスマスである。イエスの誕生をめぐり、ルカに記された羊飼いとマリアの姿を通して信仰を考えたい。羊飼いたちは天使の言葉を信じ、ベツレヘムにかけつけ、その後喜びを独占せず人々に伝えた。当時差別されていた職業である彼らに、神が味方されているのである。一方マリアは、不可解なこともすべて心に納めて思い巡らした。すべてを「神のみこころ」として捉えようとした。。教会はこの二つの信仰に倣い神の愛を分かち合う共同体として新しい年をすごしていきたい
今日の箇所のヨハネによる福音書では他と違い降誕の話ではなく、初めに言があったと語り、イエスが何者なのかを明確にし、私たちとの関わりを示す。キリストは命そのものでありその命は光としてすべての人間、そこに闇がある人間にすべてを照らす。成功や信仰の強さなどは関係なく、弱さの中でこそ輝く光である。
イエスを最初に礼拝したのは東方の占星術の学者と記されているが、当時の社会の中では片隅に追いやられてる人達と考えられてる。一方、ヘロデ王は救い主の誕生を希望ではなく脅威として恐れ、殺そうと試みていた。社会の中心にいるとはいいがたい人々と同じ高さになるように飼い葉桶を用意された。この一年、排除の機運が高まっているが、恐れから人を排除する場所ではく、神に招かれた人を迎える場所となりたいと願い、飼い葉桶のイエスを迎えるこの時期をすごしたい。
今日は「喜びの主日」。マリアが天使からの救い主の母になることを告げられ受け入れる。マリアは確認のためエリザベトのところにむかい、聖霊に満たされてほめたたえられる。マリア賛歌と言われる箇所である。私たちもそれぞれの信仰を確かめてマリアと同じように信仰の喜びを受け、次週のクリスマス礼拝をむかえよう
今日は待降節第2主日、平和の主日。今日の箇所では洗礼者ヨハネは荒れ野で悔い改めの洗礼を宣べ伝え、主の道を整える役割を担った。当時の荒れ野とは絶望の場所であったが、そこに神は道を整えてくださった。悔い改めとは反省改善だけではなく、神に立ち返る、我々の存在を神に向きなおすことである。心に主の道を整えることなのである。ただのクリスマスではなく、このことを見つめながら待降節を歩みたい
この日は、代々木上原教会のカンファレンス「キリスト者の生――これからの信仰の道しるべ」のゲストとして、経堂緑岡教会の増田琴先生をお招きして、お話いただいた。増田先生は放送大学で「死生学」の授業をもっていらっしゃる。今日のお話では、マルコによる福音書内でイエスに高価な香油を注ぐ女の話にそって、生産性と存在価値という評価を並べる。後者を聖書は神の愛と呼ぶ。私たちはその愛を受け取って歩む。それは死によって失われるものではないと示されている。
モーセはエジプトの王室で育ちながら、ヘブライ人の奴隷状態を苦々しく思い、ある日ついに同胞を救おうとしてエジプト人を殺してしまう。またそのことが知られ受け入れられていないことを知ると逃亡生活にはいる。逃亡先では結婚をするものの孤独感がある。やがてファラオがなくなると、イスラエルの民には大きな失望が待っている。しかしどんな時も神は見捨てることはなかった。神は忘れていないがイスラエルが思い出すまで待ってくださっていた。人と違って神はその名を呼ぶ人には応えてくださる。