Shimako F一覧

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「狼なんか怖くない」ヨハネ10:11-18 中村吉基

羊飼いにとって自分の羊はとても大切であるが、羊飼いとして雇われたものは狼に襲われた時などは身の危険を感じると羊を捨ててしまう。イエスはこのたとえ話をもって本物の愛に生きる人とご都合主義をわけ、イエスは良い羊飼い、羊のために命を捨てるという。続けて命を捨てることもでき、それを再び受けることができるといい、のちの復活の説明を試みている。私たちの周囲には武力や権力の濫用、身勝手さなどの「狼」がいる。イエスはその反対「仕えられるためではなく、仕えるために来た」の言葉通り、命を捨てて尽くして下さった。私たちは「羊飼い」にはなれないが、命を捨てるほどに愛して下さったイエス様を感謝して進んでいきたい。

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「私たちを導く声」ヨハネ10:1-10 中村吉基

人間関係が深くなれば信頼が生まれ、相手のことを思うだけではなくて相手を信頼し、すべてを委ねることができるようになる。それを妨害するのは「恐れ」である。恐れなくなるにはおどうしたらいいだろうか?それは今日の箇所の9節にある「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる」。羊が羊飼いの声をききわけ他の声についていかないように、私たちもイエス様の声をききわけよう。イエス様は羊飼いとして、今日も私たち一人ひとりの名前を呼んでくださっている

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「正直に生きる」ヨハネ8:1-11 中村吉基

姦通の罪で石打ちの刑が処される女を前にファリサイ派がイエスに尋ねる。律法を守るのかイエスが説いていた「神さまの赦し」なのかということである。それに対しイエスは「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」と言い、自分の犯した罪を思って投げられなかった人々が立ち去ると、イエスはその女性を罪に定めない、これからは罪を犯してはならないという。罪に定めないとは2つ意味がある。女性がしたことがいいことではないが、赦されたこと神がさまにいつも愛されていることであることを知って精一杯生きてほしいと願い、2つ目は過去よりも今日からの生き方に値打ちがある、再出発の機会を与えて下さる神様であるということである。自分を「正しい」と思わず「正しくあろう」という途上であり、心を柔軟にもちどんな時も軌道修正できることが信仰の中心である。それは自分自身の力ではできない。「そのまま」の自分をしっかりと見つめて、時には軌道修正することで神さまの祝福を受けることができる。