Shimako F一覧

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「神の前に立たされて」マルコ10:17−27 内田弥生

この礼拝は神学生の方に説教していただきました。前半はその方の牧師を目指す過程において「神の前に立たされた」経験をお話いただきました。そして下記に続きます。 金持ちの青年がイエスに永遠の命を受け継ぐには何をしたらいいかとイエスに問う。イエスは青年を愛をもってみつめ「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば天に富を積むことになる。」という、その答えに彼は気を落としてしまう。彼の姿は私たちに重なる。持っている物、例えば「あなたの携帯を、今すぐ捨てて、私に従いなさい」と言われたらどうか?イエスは「捨てなさい」とだけではなくキリストに従いなさいと言われている。神に従順であるということのみが、あらゆる苦悶から人が解放されて自由になり、神に従うことで神の子となりうる。今日の箇所の人は神の前に立たされたのである。信仰のために「何かをする」ということに留まってしまうが、たとえこの世で持っているものを捨てても、イエスに従ったからと言うことではない。私たちが自ら捨てるのではなく、神がそうさせてくださるのである。「わたしはあなたを招く、それが全てだ」というのがイエスの答えである。

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「元気を出しなさい」使徒27:21-26 中村吉基

パウロがいつどこで亡くなったかはわかっていないが、3回の伝道旅行後エルサレムで捕縛され裁判のためローマに送られた。今日の箇所はそのローマへの船でのことである。暴風で立ち往生している船の中で人々は長いこと食事をとっていなかったが、その中でパウロは人々に「元気を出しなさい」と励ます。その理由として、昨夜神からの天使がそばにたって「パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ」と語ったのだという。我々は祈りが「聞かれるか」「聞かれないか」を知らないが、この時のパウロは神に見放されていないということを確信している。「もうダメだ」と絶望した時に信仰によって人びとを励まし続けることができるか、私たちは望みなき時にも神を信じ続けることはできるのかが問われている。

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「あなたはそれでも……?」 使徒15:1-12 中村吉基

当初ユダヤ人だけで構成されていた教会は、徐々に異邦人のキリスト者が増えていった。今日の箇所、アンティオキアの教会でも同様であったが、そこで一部のユダヤ人が「割礼をうけなければあなたがたは救われない」と教え始める。しかしそれは福音のメッセージとは違う。パウロとバルナバはこの件につい激しい論争をするが、その判断をエルサレムに託す。エルサレムにはペトロもいた。すでにコルネリウスらに伝道したことですっかり外国人への見方がかわっていペトロは「わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じこと」と主張する。人間が努力をして救いを得ることはできない。私たちが救われるには神が差し伸べてくださる御手につながることである。救いは一方的な神の恵み、神の「無条件」の愛によるものなのである。

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「受け容れる人、拒む人」使徒13:44-52 中村吉基

パウロとバルナバの教えは異邦人には評判がよくたくさんの人に受け入れられたが、「選ばれた民族」と信じていたユダヤ人からは反対された。しかしパウロとバルナバは勇敢に語り、わたしたちは異邦人のほうに行く」と宣言する。「ただ神にのみ栄光を」とは宗教改革者ジャン・カルヴァンが大切にした言葉である。それは神によって救われた生活を送る、神とともに生きるということである。今日の箇所の最後は「他方、弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた」とある。我々は「喜びと聖霊」に満たされているだろうか?自分のため、または自分の利益のためにとなりがちであるが、そうではなく「ただ神にのみ栄光を」、神の愛の中で生きるのである。