申命記30:11-15;マルコによる福音書1:21-28
語られない教え
この物語を読んでみると少し不思議なところがあります。それはイエスさまが会堂に入って教えられているのに、その教えの中身に関しては何にも伝えられていないからです。イエスの教えに「非常に驚いた」(「仰天する」佐藤訳、「驚嘆させられた」宮平訳)と22節は伝えています。そして突然悪霊祓いをなさって、最後にそれを見た人は「権威ある新しい教え」に驚いているというのです。しかし、ここでは「少し不思議」な報告を通してイエスさまが教えるときにも、行い(悪霊祓い)においても人間を解放するために神から遣わされたお方であることを示しています。
21節から読んでみましょう。
一行はカファルナウムに着いた。イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた。人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。
カファルナウム(「慰めの村」)はガリラヤ湖の北西岸にある人口は1000人から1500人の町です。大きな都市ダマスコから地中海に通じる通商道路が通っていました。徴税所があり、ローマ軍駐留地でもあり、漁業も盛んでした。カファルナウムは決して大きなまちではありませんでしたが、たくさんの人々が行き交ういわば昼間人口の多いところでした。「安息日」というのは金曜日の日没から土曜日の日没までにあたり、労働を休み、礼拝を行うための日でした。エルサレムのユダヤ人は神殿で礼拝しましたが、地方には町ごとに会堂があり、ユダヤ人はそこに集まり礼拝を行っていました。
権威と権威主義
当時、会堂(シナゴーグ)で説教することに、特別な資格はいらなかったようです。イエスさまはここで教え始めるのですが、興味深いことが書いてあります。「律法学者のようにではなく、権威ある者として」教えたとはどういうことでしょうか。ユダヤ教の社会において律法は宗教的にだけではなく、社会においてもすべての規範でした。律法学者はその専門家ですけれども権威を持たないわけがありません。
ここで言われている「権威」という言葉、現代でも権威という言葉にはいい意味と悪い意味があると思うのです。たとえば「その道の権威」とか「権威ある学説」というようなほかの人よりも抜きん出ている人のことを指す場合があります。専門家、オーソリティーなどとも言うのでしょうか。かたや「親の権威」とか「権威が失墜する」というような時に使われる他を支配して服従させる力を指す時もあります。
律法学者たちはその地位を利用して、人びとを圧迫してその上に立っていたのが実態でした。イエスさまの時代のユダヤ教社会には365の禁止令と248の命令からなる613の律法規定がありました。ファリサイ派律法学者はこの掟をすべて守るようにとすべてのユダヤ人に要求していましたし、それを守ることのできない人びとを非難し、排除しました。そしてそのような人びとを「地の民」あるいは「罪人」と呼んだのです。そして自分たちはこれらの人間たちとはまったく違う質の者たちであり、これだけをとって見ても社会の中でいかに「権威」あるものとして律法学者たちが振る舞っていたかが分かります。
当時のサドカイ派が大土地所有をしていたように、彼らは資産の面では豊かではありませんでしたが、知識人としてエリート階層にあったことは間違いありません。悪い権威にのさばっているというか、彼らはそもそも律法の専門家というだけなのです。律法の文字の解釈をする人としてそれ以上の何者でもなかったのです。しかし、彼らの律法に対する執着、思い入れはすさまじく律法を絶対化すなわち律法には間違いがなく律法は一番上に来るものとして崇めていました。律法は人間が作ったものです。間違いが無いなどとは言える物ではありません。彼らは律法を「神」としてしまい、そしてその律法を司る自分たちは最高の人間だというようになってしまったのです。このようなことは私たちも陥ることです。今日でも政治の世界においても、一国を独裁するような指導者がおり、宗教界でもいわゆる「教祖」として一番上でふんぞり返っているような人がいますが、私たちも明日はそのようになってしまう落とし穴があちこちにあいていると言えるでしょう。
ファリサイ派律法学者のような振る舞いは専門家としての「権威」というより、「権威主義」と言っていいでしょう。権威主義と言うのは権威をふりかざして振る舞い、また権威に対していわれもなく服従する人びとのことを言います。イエスさまはまさにそのような権威主義に真っ向から異を唱えたお方でしたし、そのような権威あるいは権威主義のもとで苦しめられていた人びとを解放する教えを伝えたお方でした。
解放と回復
このマルコによる福音書の冒頭にイエスさまのメッセージがあります。
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(1:15)
これは神が今まさに苦しめられている人びと差別されている人々、貧しい人びと、病気の人びとに何かをなさろうとしている、というメッセージでした。そこに人びとは神から来たまったく新しいもの、他では聞いたことも、見たこともない権威を感じ、驚いたのでしょう。
さて、次に会堂にいた人びとは、イエスさまが悪霊祓いをするのを目にします。現代では科学や医学の進歩のおかげで、人間を苦しめる病気や精神的、身体的疾患の原因が究明されてきましたが、古代社会においては人間の力をはるかに超えると感じたものは悪霊や悪魔の仕業だと考えられてきました。この1世紀の中東では、天気のこと、災害、それに伴う農作物の採れ高、そして人間の病などがそれに当たりました。
しかし今日、このような現象が悪霊や悪魔に原因があるとまで、あからさまに言わないとしても、やはり、私たちに理解できない現象や悪の力は存在するのではないでしょうか。
イエスさまは神の子として25節、
「黙れ、この人から出て行け」
と命じます。そうするとたちどころに26節、
「汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った」
とあります。この出来事によって神が今も生きて働かれるということをイエスさまは証明されました。それだけではありません。イエスさまによって汚れた霊に取りつかれた人たちというのは、社会から抹殺され隅っこに、弾き飛ばされていたような人たちでした。そのような人たちがイエスさまに癒されることによって、共同体に戻されることでもありました。
さて、イエスさまが汚れた霊を追い出すというこの行為の背景には、その根本に「清浄/不浄」という概念がありました。先ほど律法について話しましたが、「清浄規定」なるものが律法にはあります。私たちも旧約聖書の「レビ記」11章以下を開いてみるとよくわかります。たとえば「食べてよい動物/よくない動物」をはじめとして、同じ「レビ記」の12章から15章には 出産、体液、皮膚病など人間の体から出るものについて、 あるいは「民数記」19章には遺体に触れることを「不浄」としているのです。
しかし、これらの「清浄/不浄」というのは所詮人間が作った概念に過ぎません。そもそも律法というものは人を縛るためにあるのではありません。人のいのちを守り、生かすためにあるのです。イエスさまが「黙れ、この人から出て行け」と言われたのは、誰に対してだったのか、あるいは何に対してだったのか、イエスさまが汚れた霊を払うという行為を通して、人間のあらゆるものへの線引き、レッテルを貼るということを考え直してみる必要があると思います。私たちの生きている現代世界の中にもこれと同じような構造を持つものが溢れているからです。
悪に立ち向かう力
そしてイエスさまの言葉は私たちにも向けられています。イエスさまの言葉や教えは私たちの中にある悪の心、また私たちの周りにはびこる悪の力に向けて力強いメッセージになるのです。
私たちの生きているこの世界は絶えず悪に毒されています。しかし、そのように悪に汚染されっぱなしの世界ではなく、イエスさまのメッセージが、この世界で神が働かれている証しになるのです。これに安心をして、イエスさまのみ言葉に私たちも生かされて悪に立ち向かえる力強い一人ひとりになれるようにさらなる力が聖霊によって与えられることを願いましょう。