出エジプト記2:11-25;ルカによる福音書4:18-19
モーセの出自と葛藤
ヘブライ人であったモーセは不思議な神さまの導きでエジプトの王女に拾われて王室で育てられることになりました。豊かな教育も受けることが出来たのです。しかし、実の母が乳母として途中まで養育したことから、モーセはイスラエルの民であることを自覚しながら育ったと言えます。そして同じイスラエルの民族がエジプトで奴隷状態になっているのを苦々しく思ってもいたのでした。
同胞を救おうとしたが・・・・・・
成人したモーセはある時、イスラエルの奴隷がエジプト人に鞭で打たれているのを見て、12節「辺りを見回し、だれもいないのを確かめると、そのエジプト人を打ち殺して死体を砂に埋めた」のでした。「モーセは辺りを見回し、だれもいないのを確かめると」とあります。いわゆる「完全犯罪」だと思っていたのです。
けれども翌日にこんなことが起こるのです。13節「今度はヘブライ人どうしが二人でけんかをしていた。モーセが、『どうして自分の仲間を殴るのか』と悪い方をたしなめると、『誰がお前を我々の監督や裁判官にしたのか。お前はあのエジプト人を殺したように、このわたしを殺すつもりか』と言い返したので、モーセは恐れ、さてはあの事が知れたのかと思った」。
モーセは自分がエジプト人を殺したことを人々に知られているのを知って、狼狽しました。その上、自分と同じヘブライ人たちが心を開いてくれないことに悩みました。モーセは自分がヘブライ人の血統にある者だから、彼らもモーセのことを受け入れてくれると思いこんでいたのでしょう。しかし、モーセはエジプトの王室に属する者として、却ってヘブライ人の反感を買っているなどとは思いも寄らなかったのです。
その上にこんなことも起きました。15節の前半です「ファラオはこの事を聞き、モーセを殺そうと尋ね求めた」。そしてモーセは「ファラオの手を逃れてミディアン地方にたどりつき、とある井戸の傍らに腰を下ろした」のでした。
ミディアンでの逃亡生活
聖書の中で「井戸」が出てくるとそこでは重要な出会いがなされます。創世記29章ではヤコブが井戸の傍らでハランの人々と出会いますし、イエスさまもヨハネ4章でサマリヤの女性に水を乞う場面があります。ファラオの手を逃れてミディアン地方にたどりついたモーセは、ここで祭司の娘ツィポラと知り合い、結婚し、牧畜の仕事をし始めました。
モーセの120年の生涯は40年ごとに3つに区切ることが出来ますが、ここから、ミディアンでの生活をするモーセは人生の第2期に入ります。それは決して祝福されているとは言い難いスタートでしたが、エジプトの王室とはまったく違うと言っていい、素朴で温かな暮らしでした。
でも私たちもこういうことを経験したことがないでしょうか? 平穏無事で暮らしてはいるが、何か物足りない・・・・・・。目標も生きがいも何もなくしてしまったモーセでした。それは何と思いあまって自分の息子に、22節、「ゲルショムと名付けた」のです。これは「わたしは異国にいる寄留者」という意味でした。こんな名前をつけられた息子はたまったものではなかったでしょう!
しかしこの時のモーセの心理状況をよく表わしている箇所です。何となくただぼんやりと目標もなく、また誰かから必要とされることもなく、毎日を過ごしていました。今で言う「うつ状態」であったかもしれません。
民の嘆きと神の応答
やがてエジプトのファラオが亡くなりました。23節はそのことを素っ気なく伝えていますが、これは歴史の大転換点でした。イスラエルの民を虐げているファラオが死んだのです。イスラエルの民は自由になる道筋がついたと期待したかもしれませんでしたが、民をめぐる状況は何も変わらないままでした。人間というのはどん底に落とされて初めて自分のことを振り返ろうとします。イスラエルの民は自分たちがやっと解放され、自由を手にすることが出来ると、ぬかよろこびしましたが、それが打ち砕かれました。その時になってやっと自分たちの歩みを省みたのです。23節の後半からこう記されてあります。
「イスラエルの人々は労働のゆえにうめき、叫んだ。労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声は神に届いた。神はその嘆きを聞き、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。神はイスラエルの人々を顧み、御心に留められた」。
なんの希望が持てなくなった時、人々は神を思い出しました。この箇所の動詞の部分を目で追ってみるとよくわかります。その叫び声は神に「届き」、嘆きを「聞き」、「思い起こされ」、「顧み」、御心に「留められた」のです。
正義の怒りと沈黙への警告
私はこの今日の箇所を読むたびに、ひとつのことが頭をよぎります。モーセはエジプト人に虐げられているヘブライ人たち見て、モーセの身体中を流れているヘブライ民族の血が煮えたぎったのでしょう。私はこの気持ちが手に取るようによくわかります。私は同性愛者として同じ性的少数者が差別されているのを看過できない気持ちがあるからです。もちろんモーセは人を殺して、そっと葬り去ってしまうのは許されることではありませんが、私も自分の中を流れる血が煮えたぎってくることがあるのです。
マルティン・ルーサー・キング牧師は「最大の悲劇は、悪人の暴力ではなく、善人の沈黙である。沈黙は、暴力の陰に隠れた同罪者である」と言いました。私たちは無関心を装うのではなく、見過ごすのでもなく、絶えず声を発信していくこと、それが今日の箇所が私たちに教えていることの一つです。
変わらぬ神の導きと希望
今日の箇所を振り返りましょう。モーセが安穏(あんのん)に暮らしている時にも、希望を持てなかった時にも、神さまは絶えず背後で働いていてくださいました。神さまだけはモーセを見捨てることはなかったのです。それはイスラエルの民にも同様です。神さまはイスラエルをお忘れになることはなかったのです。ただ民の側から神さまを思い出してくれるのを忍耐して待っていてくださったのです。神さまは私たちを見放したり、見捨てたりする方ではありません。けれども私たちはある事がなかなか許せなかったり、簡単に人を「切って」しまうことがあるのではないでしょうか。神さまはいつでもその名を呼ぶ人に応えてくださるお方です。
そしてイエスさまは十字架で両手をいっぱいに拡げて死なれました。それはいつも私たちが神さま、イエスさまのもとに帰ってくることが出来ることを象徴的に表わしているのではないでしょうか。今日からの一週間、この神さまの愛を忘れずに過ごしましょう。そして教会の暦は来週から待降節に入ります。新しい年の扉を共に開きましょう。