「助け合い、支え合う」使徒4:32-37 中村吉基

イザヤ書49:14-21;使徒言行録4:32-37

平日には、毎朝、NHKの「朝ドラ」を楽しみにしておられる方がおられると思います。今、放映されているのは「あんぱん」ですね。アンパンマンの作者やなせたかしさんの半生を描いたものですが、主人公はやなせさんのお連れ合いであった、のぶさんです。この、のぶさんのモデルになったのは「池田のぶ」さんという人でしたが、昨日発行された「教団新報」に高知教会の牧師・黒田若雄先生がお書きになっておられるエッセイによれば、池田のぶさんが1927年4月17日に高知教会で洗礼をお受けになっていることが新たにわかったのだそうです。その日、のぶさんのお母様の池田とめさんが洗礼をお受けになるにあたって、そのお子さんたちが、きょうだい5人で幼児洗礼を受けておられたことがわかったそうです。おそらく若くして夫を亡くして5人の子を育てていかなければならない矢先にこのお母さんはキリストによって身を立てていこうと決心されたのではないかと思います。(教団公式サイトから読むことができます)

さて、使徒言行録は、2000年前に誕生したキリスト教会の最初期の歩みを記した記録です。教会は最初から多様な人によって形作られていました。そこには小さな子を抱えた池田とめさんのような未亡人もいたことでしょう。しかし皆が生き生きしていました。

今日与えられた箇所には、「教会」という言葉は登場しません。それが初めて現れるのは、次の5章からです。ここでは「信じた人々の群れ」と記されています。何を信じた人々なのか。それは言うまでもありません。神によって死者の中から復活させられたイエス・キリストを信じた人々です。彼らは、まだ「組織」としての教会ではなく、しかし確かな「信仰の共同体」を築き始めていました。

この「信じた人々の群れ」について、使徒言行録はこう描写しています。

32節、「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。」

これは非常に印象的な光景です。今日の私たちが当たり前のように思っている「所有」という考え方を、根本から問い直させられるからです。

私たちは多くのものを所有しています。家や車、お金や服、あるいは情報や時間も「所有」ということに含まれるでしょう。そして、所有することで安心を得ているように思っています。所有することで自分の身を守れる、自分を豊かにできるという思い込みに縛られています。しかし、それは実際には一時的な安心感にすぎません。

主イエスはある時こうおっしゃいました。

「あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もある」(ルカ12:34)

そしてまた、

「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」(同12:21)

所有にとらわれることで、人は神にも隣人にも心を向けることができなくなります。主イエスはそうした価値観を打ち壊そうとされたのです。持っている人が偉いのではなく、持たない者こそが祝福されるという、逆説的な福音の価値観がここにあります。

「心と思いを一つにしていた」とありますが、それがどうして実現できたのでしょうか。そのヒントは今日の直前、4章31節に記されています。

「祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語り出した」

つまり、祈りを通して、聖霊に満たされ、心が一つにされていたのです。聖霊が人々を結び合わせ、バラバラではなく、互いに支え合う共同体へと形づくっていったのです。

そして、使徒たちは大いなる力をもって主イエスの復活を証ししました。ここでいう「大いなる力」は、原語で「デュナミス」と言います。英語の「ダイナマイト」の語源となった言葉です。つまり、爆発的な神の力、恵みが彼らの内に炸裂したのです。これは、教育のない人々や社会的に弱い立場の人々でさえも、イエスの福音を語る大きな原動力となったということです。

それでは、私たちはそのような「大いなる力」を祈り求めたことがあるでしょうか。最初のクリスチャンたちに与えられた恵みは、現代の私たちにも変わらず注がれる恵みです。問題は、それを本気で求めているか、心から望んでいるかということなのです。

この「大いなる力」を受けた使徒たちは、主イエスの「復活」を証ししました。ここで強調されているのは、イエスの「死」ではなく、復活の「いのち」です。これは、コリントの信徒への手紙一にある「主の死を告げ知らせる」(11:26)という聖餐の伝統と対照的です。まさに、死を超えた命の宣言がなされていたのです。

さらに、33節をご覧ください。「人々から非常に好意を持たれていた」とありますが、別の訳では「大いなる恵みが彼ら全員の上にあった」や「大いなる喜びが彼らを包んでいた」と訳されています。いずれにしても、外からの評価以上に、共同体そのものに満ちあふれていた祝福が強調されています。

なぜなら、「信者の中には、一人も貧しい人がいなかった」からです。

旧約聖書の申命記15:4にはこうあります。

「(あなたがたの中には)貧しい者がいなくなる(であろう)」。

この神の約束が、ここで成就したのです。

今日の箇所の終わりには、バルナバという人の名前が出てきます。バルナバという意味は「慰めの子」であると記されています。彼が使徒たちからこのように呼ばれていたということは、真に慰めに満ちた神の言葉を伝える賜物に恵まれていたのでしょう。本名はヨセフと言いました。これからイエスを信じ、歩みを起こしたものとして大きな働きをする人でした。バルナバの出自は「レビ人」とあります。レビ人はモーセの兄アロンの血筋にあり、神殿で様々な役割を担っていた家系の人をいいます。ここで重要なのは、彼がレビ人であるということです。レビ人は本来、土地を所有することを禁じられた部族でした。彼が土地を持っていたということは、他の部族から土地を提供されて、彼も所有していたのでしょう。けれども彼はそれを売りました。そして使徒たちの足元に代金を置きました。これは祭司に伝えるレビ人としてではなく、「慰めの子」バルナバとしてイエスに支えて働こうという彼の一大決心でした。後にバルナバはパウロに同行して、地中海東部にある故郷キプロス島に宣教に赴いています。

ここに現代の私たちも学ぶべき姿があります。所有していることが悪いのではありません。それをいかに用い、どのように差し出すのかという姿勢が問われているのです。

そしてこう記されています。

35節「使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配された」

なぜ「足元」だったのか。それは、その金が使徒たち自身のものではなく、神のものであるという意思表示だったのでしょう。やがて、礼拝の中での献金という習慣が始まりましたが、それは単なる儀礼ではなく、教会に集う人々の生活を支える、実に実践的な行為だったのです。

このように最初のクリスチャンたちは、誰かに命じられてではなく、自発的に、愛の行為として、自分にできる最善のことをしました。前に困っている人、病んでいる人、孤独を感じている人がいたなら、ただちに手を差し伸べる。神の愛が彼らの中に生きて働いていたからです。

私たちの教会も、この最初の教会に倣い、「助け合い、支え合う」共同体でありたいと願います。誰かが困っていたら、そっと手を伸ばす。誰かが悲しんでいたら、共に涙を流す。誰かが喜んでいたら、心から祝福する。そのようにして、神の愛が目に見えるかたちでこの地に表されていくのです。最初のクリスチャンたちがそうであったように、私たちもまた、神の愛に突き動かされて歩んでいきましょう。