エゼキエル書18:25-32;使徒言行録17:22-34
私の趣味はウォーキングで、だいたい1日1万歩は歩いています。しばらく前から、休みの日には旧東海道を少しずつ歩いており、先日は小田原から箱根の山にある関所跡まで、20キロほど歩きました。普段は一人で歩いていますが、先日の箱根までの道中は、同じように旧東海道を歩いている先輩牧師と2人で歩きました。少しずつ歩いて、次に歩くときには前回到達したところまで電車で移動し、歩いています。いったいいつになったら京都に行けるのかは、まだわかりません。日本橋から箱根まで歩いたので、お正月に行われる箱根駅伝のコースとほぼ同じところを歩いてきました。
まだ序の口ですから何とも言えないのですが、旧街道沿いには実にたくさんの神社仏閣が建てられています。地図を片手に歩いているので、それらがよい目印になっています。きっと、ここを歩いてきた旅人にとって、これらの神社仏閣は多くの参詣者を得てきたのでしょう。そして街道沿いには、明治期以降に建てられた教会も集中しています。川崎にも、藤沢にも、平塚、大磯、二宮、小田原にも立派な教会堂がありました。おそらく、これらの教会を開いた宣教師たちは、人の往来が絶えない街道に土地を得て、教会を開いたのだと思います。
今日の聖書・使徒言行録には、異教の地に足を踏み入れて、本来はそこで仲間たちと待ち合わせをしていて、宣教するつもりはなかったけれど、聖霊に促されてイエス・キリストを証ししたパウロの説教が記されています。舞台となったのは、ギリシアのアテネでした。アテネはかつて哲学と文化の中心地。ソクラテス、プラトン、アリストテレスといった大哲学者たちを輩出した町であり、その地で、パウロは「知られざる神に」と刻まれている碑のあった祭壇を見て、福音を語る機会を与えられました。
私たちが生きている現代社会も、ある意味で“アテネ”のようです。科学と合理主義が支配する一方で、スピリチュアルなものや多様な信仰があふれています。そのような時代に、私たちはどのように神を証しすることができるのでしょうか。
パウロは、いきなりアテネの人々を責め立てませんでした。彼はこう言いました。
「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます」(22節)。しかし、これは褒めているようにも、皮肉で言っているようにも、どちらにも聞こえます。ここに、パウロの宣教の知恵が見え隠れします。彼は、相手の信仰心そのものを否定するのではなく、その中にある“探求心”に共感を寄せています。
インドで活躍したマザー・テレサが、彼女たちの修道会が運営する「死を待つ人の家」に瀕死の重症で運ばれてくる人たちに、最初にしたことはその人たちの宗教を訊ねることでした。そして、その人たちが死を迎えた時に、その宗教で葬ることをしていたそうです。キリスト教の施設だからといって、キリスト教で葬っていたわけではなかった。路上で倒れていて、どこの誰とも分からない人をも最後まで尊重するという彼女たちの姿勢は、当時のキリスト教では考えられないことでした。キリスト教だけが正しいとされていた時代に、他宗教のことなど眼中になかったのです。
パウロがアテネの人たちの信仰を純粋に褒めていたとしたならば、手荒に改宗させるようなことはなかっただろうと思うのです。それだけではなく、さまざまな学問や信仰や文化が氾濫していたアテネでは、イエス・キリストのことなど知らない人ばかりだったことでしょう。ましてや、その救い主が「死から甦られた」などと語れば、一気に嘲笑されたことでしょう。
現代においても、宗教に対して無関心、あるいは懐疑的な人々に出会うことがあります。しかし、その奥には「人生の意味とは」「なぜこの世に生まれてきたのか」「死んだらどうなるのか」といった、根源的な問いがあることが多いのです。私たち信仰者は、その問いに丁寧に耳を傾けるところから始めなければなりません。
実際、アテネの街中には、あちらこちらに神々の祠が立ち並んでいたと言われています。ありとあらゆる神が拝まれていたことでしょう。そして、その中に「知られざる神に」と刻まれた碑文があったことから、パウロの説教の切り口とされたのでした。
アテネの人々は非常に宗教心があるように見えますが、好奇心が旺盛だったようです。
「すべてのアテネ人や、そこに住む外国人は、何か新しいことを話したり聞いたりすることだけで時を過ごしていたのである」。優雅に暮らしていたのかもしれません。日本のキリスト教会も明治・大正の時代の記録を読むと、礼拝だけでなく、「基督教大演説会」のような催しにおいては、1時間や2時間の説教もざらにあったといいます(現在人の私たちはたまったものではないと思うかもしれませんが)。娯楽のない時代です。テレビもインターネットもない時代に、人々はこぞって教会や講堂に足を運び、キリスト教の教えに耳を傾けたのでした。
アテネっ子たちも「新しい話題」が好きだったのでしょう。だからこそ、パウロの語る“奇妙な教え”にも興味を示し、「アレオパゴスで話してみろ」と声をかけたのです。そこまでが、今日の箇所の前提とされるところです。アレオパゴスとは、アテネの評議会が開かれ、重要な議論がなされていた場所でした。そして今でも観光の中心地です。パウロにとっては、千載一遇の場所での説教だったのです。
パウロは言います。23節の後半です。
「それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それを、わたしはお知らせしましょう」。
この言葉には、私たちにも与えられている使命があります。神はもはや“知られない”お方ではなく、イエス・キリストにおいてご自身を現されたお方です。私たちは、その福音を証しするために遣わされているのです。
そして彼は、「あなたがたが知らずに拝んでいるもの」こそが、天地万物を造り、すべてのいのちを与える主であるまことの神であると語りました(24節前半)。この神は、手で作った神殿に住むような方ではなく、すべての民を支配し、しかも私たちのすぐ近くからあらゆるものを与えてくださるお方であるというのです。
私たちの周囲にも、“知られざる神”を探している人々がいます。それが神なのかどうかはわからなくても、「大いなるお方」がこの世界を動かしているということを、おぼろげに感じている彼らに向かって、「あなたが探しているその方こそ、イエス・キリストなのです」と語ることが、私たちの務めなのです。
さて、パウロの説教に対するアテネの人々の反応は、一様ではありませんでした。
アテネの人々にとって、それは衝撃的なものでした。神というものは「怒らせたら罰を下す存在」ではなく、「私たちを生かし、導いておられる方」だとパウロが伝えたからです(24~27節)。
しかし、後半の32節にはこういう描写があります。「ある者はあざ笑い、ある者は『それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう』と言った」。こういう断りの言葉を、私たちも使ったことがあるでしょう。「いずれまた聞かせてもらう」ことは、実際にはないのです。都合よく何かのお誘いを断るときに使う言葉です。
信仰の種を蒔いて、それがすぐに芽を出すとは限りません。もしすぐに芽が出たら、それはとても薄っぺらいものであるかもしれません。パウロはその場を離れた後も、34節には何人かが「信仰に入った」と記されています。
私たちの宣教も同じです。すぐに結果が出なくても、神の言葉は必ず実を結びます。「聞く耳のある者」(マルコ4:9)が起こされることを信じて、語り続けることが大切なのです。
パウロが立ったアレオパゴスの丘は、まさに世俗と宗教、理性と信仰が交差する場でした。そして、私たちが置かれている仕事場や学校、それぞれの家庭もまた、現代のアレオパゴスと言えます。
私たちはそこに遣わされている「証し人」です。批判や押しつけではなく、かつて歴史の中で「改宗」ということが数多くなされてきたことを反省し、私たちクリスチャンは、対話と愛の姿勢をもって、まだ知られていない神を伝えていきたいと思うのです。たとえ実りが少なくても、神ご自身が私たちを通してご自身を現し、そこに聖霊が働いてくださるのです。
旧東海道沿いに教会を建てていった宣教師や牧師たちも、聖霊によって大きな力を与えられ、神社仏閣に並ぶような教会を開いていったことでしょう。異教の根付いた土地に入っていくことは並大抵の努力だけでは実らなかったことも多かったのではないかと思いを馳せるものです。