士師記13:2-14;フィリピの信徒への手紙4:4-9
アドヴェント・クランツに3本目のろうそくの灯がともりました。今日のろうそくの色は少し違っています。これまで紫のろうそくを2本点してきましたが、今日待降節第3主日のろうそくはばら色のろうそくです。実は、待降節の4回の主日(日曜日)にはそれぞれ別名を持っています。先々週の第1主日は「希望」、先週第2主日は「平和」、そして今日第3主日は「喜び」、そして次週第4主日は「愛」というようになっています。今日は喜びの主日です。別名「ばらの主日」と言います。「人生ばら色」って言いますよね。万国共通「薔薇」は素敵なものの象徴です。クリスマスがもうそこまで近づいてきたことを実感する日曜日が今日なのです。待降節に入ったときに私は「主の到来を待ち望みながら、自分自身の信仰を省みましょう」と言いました。しかし、今日一日は小休止というか、喜びをかみしめて過ごす日なのです。
ちなみに待降節の典礼色である「紫」は、キリスト教では「喪」の色を示しますが、これは「王」を表す色でもあります。日本でもそうですが、昔の貴族は紫色の衣を着ています。ヨーロッパでも中東でも同じでした。高貴な色を表します。紫の染料というのは手に入りにくかったのです。私たちはこの待降節に紫を飾りながら王として再びこの世界に来られるイエスさまを待ち望むのです。
カトリック教会の方々の聖書を学ぶ姿勢は近年めきめきと熱心になっています。カトリック教会では聖書を学ぶことにあまり最近まで力を入れてこなかったというか、宗教改革以前の時代は、聖書は聖職者しか読めないものでしたし、そのようなこともあって宗教改革者たちは聖書の普及に努めたわけですが、カトリックの方々は少し前までは自分専用の聖書も持っておられないことが多かったように思います。
先日私は自分用の新しい聖書を購入しました。本来ならば、カトリックなどで「第2正典」とされている続編の部分が付いた聖書は、すでに持っておりますので、革製の少し薄くて、大きな文字ものを購入しようとしたところが、プロテスタントの人が持つ聖書はかなり前に品切れになっており、結局続編のついた聖書を購入しました。日本聖書協会にも問い合わせたのですが、「聖書の装丁を依頼していた製本所が事業終了した関係で、在庫限りで終了となりました。折革装の聖書について海外の加工場を含めて試作検討している段階」とのことでした。聖書を製本する職人がいなくなって、それだけではなく材料の高騰もあるでしょう。それでおそらく全国で一冊だけ店頭に残っていた一冊の聖書を購入しましたが、少し邪推をしまして…プロテスタントでは牧師も信徒も一人一冊聖書を持っているため、早く品切れて、このカトリック用の聖書が売れ残っているということはやはり今も自分用の聖書に親しんでいないのではないかということを思ったわけです。決してカトリックの聖職者や信者さんたちを非難してこう言っているのではないのです。私自身もかつて10年ほどカトリック教会での教会生活をしたことがありますので、今、カトリックの人たちの学ばれておられる講座には「聖書100週間」や「アルファ・コース」なるものもあることを知っているのです。
脱線しましたが、これはあるカトリックの雑誌に掲載されていた一つのジョークでありますが、「聖ペトロが天国の門に立って、地上で召されてきた人を試問しています。聖書について質問をしているのですが、プロテスタントの人は『ああ、それは○章○節に書いてあります』と模範的に答えて、天国に入れてもらいます。次にカトリックの人がやってきて、同じ質問をされるのですが、『全然、わかりません』と答えるのです。すると聖ペトロは(その人の答え方を聞いて)「あなたは確かにカトリックだ、よろしい天国に入りなさい」と言うのです。カトリックの人からしたら面映いかもしれません。この小噺をプロテスタントの牧師がするのは失礼かもしれません。
「愛唱聖句」(好きな聖句)を持っている人がかなりの数に上ります。皆さんそれぞれにとても大切にしている聖書の一節があるのだな、と思わせられました。そして、前置きが長かったですが、ここから本題です。愛唱聖句として最も人気のある聖句は何かと言いますと、新約聖書のテサロニケの信徒への手紙第1の5章16~18節にあります
いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。
という聖句でした。この聖句のどこに惹かれるのでしょうか。各人それぞれの理由が書いてあると思いますが、おそらく多くの人はこの「喜び」という言葉に惹かれているのではないでしょうか。聖書の中には、「喜び」という言葉が数え切れないほど出てきます。今日の礼拝への招きの言葉、詩編33編もそうですし、今日私たちに届けられましたフィリピの信徒への手紙4章4~9節もまた私たちを「喜び」へと招いている言葉です。
このフィリピの4章4節は先ほどのテサロニケの言葉にくらべて、一つの言葉が冒頭にきます。それは
主において常に喜びなさい。
「主において」という言葉です。先ほどのテサロニケの言葉の末尾にも「これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」と「キリスト・イエスにおいて」とありましたから、同じ意味をなすのでしょう。しかし、フィリピの4章ではもう一度、「重ねて言います。喜びなさい」ってあるのです。ほとんど命令するかのようです。歌手の中島みゆきさんの作品に「御機嫌如何」というものがあります。
この歌に繰り返されるフレーズは
♪泣いてる日もあります。笑う日だってあります。
という一節です。
私たちはこの歌詞の通りだと思うのです。泣いてる日も、笑う日もあります。そうして私たちの毎日、私たちの人生というものは築かれていきます。嬉しいときに喜ぶのは当然です。でもそうでないときに喜ぶのはとても難しいです。病気のときもあります。愛する人と別れなくてはいけないときがあります。貧しいときだってあります。今、テレビのニュースを見ると就職の内定を取り消された学生やリストラされた契約社員の人とか、たくさん出てきます。こういう人たちに「主にあって常に喜びなさい」って私たちはどんな顔をして伝えられるのでしょうか。悲しいこと、悔しいこと、苦しいこと、この世の中にはいっぱいあります。それなのにどうして聖書は私たちに「喜んでいなさい」と告げるのでしょうか。
それは神さまが、私たちの苦しみ、悔しさ、悲しみというような一切の物事を、喜びに変えてくださるお方だということは紛れもない事実だからです。ではどうして今、苦しみや、悔しさや 悲しみなど私たちが「喜べない」現実があるのか、というとそれも神さまが与えてくださっていることなのです。それならば神さまっていうのは右手で人間の頭を撫でて、左手で殴っているようなお方だと思えてくるかもしれませんが、そうではなくて、私たちは「喜べない現実」を乗り越えることができたときに、人間としての幅とか、年輪といったものがより広く、より深くされているでしょう。どん底を経験したからこそ、喜びはより一層のものとなるでしょう。
先ほど「主にあって」という言葉があることを申しましたが、これは「神さまを信じて」あるいは「キリストを信じて」という意味です。クリスチャンとして生きる、神さまを信じ、キリストに従い、そのキリストに示された愛の実行者として生きるということは永遠の喜びに向かって今、私たちは旅を続けているのと同じです。「喜べない現実」が依然と私たちの前を立ちはだかるかもしれません。しかしその山の向こうには絶えることのない喜びが用意されています。ですから苦しみも、悔しさも、悲しみもすべて喜びに至るプロセスなのです。
プロセスは大事にしなければなりません。今差し詰め大きな苦しみなどがない人にとっては、それを受け容れることができても、今苦しみの最中にあるひとにとってはとにかくそこから抜け出したいと思っていることでしょう。それでは大事にするとはどういうことでしょうか。それはいかなる事実をも肯定的に受け容れるということです。例えば何かの資格試験を受けたとします。結果は二つしかありませんね。合格か不合格です。合格したら神さまに感謝をし、不合格なら神さまを恨んでやろうと最初から思っている人には、山を越えることはできません。合格ならば、その道に進みなさい、ということを神さまのみ心として受け取り、不合格ならば、その道に進んではならない、という神さまのみ心だと捉えることです。私たちは祈る時に、「○○さんが合格しますように」とか「○○さんがこうしてこうなりますように」と神さまを無視して、勝手に結果を決めてしまって祈っていることがあります。これでは神さまのみ心を無視することになります。
一生懸命目標に向かって努力をしてきた人が、その願いが叶わずに落ち込んでいることがよくあることです。しかし、そのようなときに神さまを恨むのではなく、神さまのみ心がどこにあるのか問うことのできる人は賢い人です。私たちの人生はどこの学校を出ているとか、どこの会社に就職したとかで決まることではないからです。
どんなことでも肯定的に、楽天的、積極的、好意的に、捉え、希望を捨てずに歩む人は、永遠の喜びに最も近く到達できる人です。5節以下のところにそう記されています。
あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。
いつも何事も否定的、悲観的、消極的な上に敵意を抱いている人は、結果として喜びを遠ざけ、まわり道をしているのです。このような人は決して楽しい人生も、充実した日々も手に入れることはできないのです。皆さんはこのように無駄、無意味、無価値な人生を送りたいでしょうか。
「愛の反対は憎しみではなく、無関心」です。と言ったマザーテレサの言葉をご存知だと思います。イエス・キリストはこのような無関心に満ち満ちた愛のない世界に2000年前においでくださいました。暴力がはびこり、不正が行われ続けるこのような世界に「平和」をもたらすためにやって来られました。私たちが希望を、平和を喜びを、そして神の愛を得るためにはこのイエス・キリストを通らずして実現することはありません。私たちは、私たちと同じ人間の姿で生まれてくださった神の御子イエス・キリストを信じ、従い、愛することで喜びの道筋が整えられていくのです。ご一緒にイエスさまを仰ぎましょう。
主において常に喜びなさい。