創世記12:1-9;ガラテヤの信徒への手紙3:1-18
「私には浅はかな知恵しかなくて…」とか「私は非力で…」などと日本人はよく謙遜してものを言うことが美徳とされています。また一方で「才能がない」「力がない」おまけに「夢もない」などないないづくしで自分を見ている人がいます。自己肯定感が低いと言いますか、果たしてそうでしょうか? 実は神さまは私たちが生まれたときから私たちの人生を送るために必要なものはすべて私たちの中に備えていてくださいます。つまり私たちの内側にいくつもの種類の種が蒔かれていると考えていただければわかり易いかと思います。神さまはいつどのように皆さんを用いられるかわかりません。その一つの例を今日私たちは創世記から聴いてみたいと思うのです。
アブラハムとその一族はカルデアのウルと言うところに住んでいました。そこで神さまの呼びかけを聞き、以降彼とその一族は一生涯旅をし続けるのです。しかもアブラハムはこの時、75歳です。その呼びかけはいったいどんなものであったでしょうか。12章の冒頭にはこのように記されています。
主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。 わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。(12章1~2節)
創世記の始めから、このアブラハムの物語の直前までのところには、神さまのご計画に従わなかった、つまり肉の欲といいますか、自分の思いに任せて「無計画」に歩んだ最初の人間たちについて記されています。しかし、この12章には神さまのご計画にすべてを委ねて歩み続けたアブラハム(アブラム)が登場します。そして12章の4節には、アブラハムは「主の言葉に従って旅立った」とあります。行き先、どこに導かれるかもわからない旅でした。アブラハムという人は向こう見ずな、無計画な性格だったのでしょうか。そうではありません。彼は決心をしていました。「ひたすら神の言葉に従う」ということを、です。この旧約の信仰の先輩から学ぶことは多いのです。そして今日まず私たちがアブラハムの信仰から学ぶべきは、私たちも私たちの人生の中で、どれだけ神さまに委ねて生きているか、ということです。これから向かう先に何が起こるかわかりません。どこに向かうのかもわかりません。しかし、「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である」と言われる神さまのみ言葉一つ(15:1)に人生を委ねて、歩み出す決心をしたのです。どこに行くのかもわからないけれど、神さまが強いみ手をもって導いてくださることだけを信じて進んだのです。考えてみれば私たちもそうではなかったでしょうか。あの洗礼の水が頭に流れた時に、私たちもそれまでの自分中心の生活を捨てて、神中心の生活の扉を開けたのではなかったでしょうか。アブラハムにも住み慣れた家や土地がありました。しかし、神さまは「わたしが示す地へ行きなさい」と言われました。この一言に彼は全生涯を委ねたのです。私たちも私たちの生活を顧みれば、どれだけのことが確実なのかよくわかりません。明日のこと、いや今日のこともわからないのが現実です。そういう意味では私たちもアブラハムと同じ旅人だと言えるでしょう。
さて、先ほどお読みしました12章の冒頭には「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい」というみ言葉がありました。実はこの箇所を口語訳聖書は的確に訳しています。それはこういう訳になっています。
「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい」。
ここには「出る」「別れる」「離れる」そして「行く」という4つの動詞が使われています。
この言葉は私たちに多くのことを問い、投げかけるのではないでしょうか。自分のことに置き換えてここを読んでみましょう。「○○さん、あなたは自分のいる場所を出て、親しい人、お世話になった人々と別れ、家からも離れて、わたしが示す地に行きなさい」。
これはいわゆる「出家」を勧めているわけでもないし、修道院に入るとか、どこか遠くに行ってしまう「特別なこと」を指しているのではないのです。私たちの「今、ここ」での生活、普段の生活、毎日何の気なしに特別なこととは思っていない生活の中で、この神さまのみ言葉、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい」に耳を傾ける時に私たちは神の声に聴くことが出来るのです。
皆さんの内面の多くを「執着」が占めているのではないでしょうか。また皆さんは「安定」を心のどこかで求めているのではないでしょうか。皆さんの人生の道、皆さんと神さまとの関係を問い直す時に、自分の心にこの神さまのみ言葉を投げかけてみてください。「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい」。
「召命」ということを普段皆さんはあまり考えていないかもしれません。召命は「神が自分に何を望んでいるのか」を考えることです。アブラハムは75歳で出発しましたから、それを考えれば皆さんにはたくさんの可能性が待ち受けているはずです。もし皆さんがすでに自分の人生についてじっくり考えていたならば、それは召命について考えていると言えるでしょう。そしてさまざまな神からの呼びかけがあろうかと思います。ある人は聖書の言葉を通して、ある人は祈りの中で、ある人は普段の人とのかかわりの中で、中には親しい人が自死をしてしまった現実のただ中で、ある人は職場をリストラされてしまった状況の中で、神さまからの呼びかけを聴きました。そしてそのうちのある人々を神は「献身」へと招いておられます。献身とは自分自身を献げると書きますが、その中で神は伝道者(牧師)として人生を献げなさい、という呼びかけをなさるのです。この召命を受け、それに応えて従うことが献身です。
私は高校生の頃に召命を受けておりました。しかし、それにお応えして献身したのが、30歳を過ぎてからという何とも遅々とした歩みでした。けれども神学校に入るまでに経験した一つひとつのこと、出会った人びと、お世話になった人びとから頂いた多くのもの、大学などで学んだこと、社会人経験そして、それを後押ししてくれた両親のことなど、一場面一場面が今日、牧師としての私を支えています。
私は既に10代の頃に同性愛者であると自覚していました。いま私はさまざまな方にこう尋ねられることがあります。
「同性愛者が牧師をしていていいのですか?」。
しかし、神さまは確かに私を伝道者・牧師として召し出されたのです。
私はキリスト者です。そして同性愛者です。
私が同性愛者として生まれたその時に、既に神さまを信じてはいけなかったのでしょうか。
神さまから召命を受けても、献身してはいけなかったのでしょうか。
私の祖父母をはじめ、血縁のある者たちはキリストを信じ、従ってまいりました。それでも私だけは牧師になれないのでしょうか?
私は私にしか語れない方法で神さまを伝えるために今日牧師としての歩みをゆるされているのだと信じています。神さまは私たちを呼んでくださっています。招いてくださっています。「わたしが示す地へ行きなさい」と今朝、私たちに語ってくださっています。私たちは今、目の前に立ちはだかる過酷な現実に、神の力によって立ち上がるのです。くよくよするのはもうやめましょう。私たちは不可能という国を出ましょう。絶望と別れましょう。不安や失望から離れましょう。それはすべて神さまの力によってのみ実現可能なのです。皆で手を携えて、神さまが示す地へ行きたいと思うのです。
私たちには「信じる気持ち」が大切です。聖書の言葉を、活きた神さまからのみ言葉として読んでいるでしょうか。今日自分に語りかけられている神さまからのメッセージとして読んでいるでしょうか。確かに私たちには多くの経験や体験があって、それが壁となって、「いやそんなことがあるがわけがない」「まさかそんなことはないだろう」と懐疑的になってしまいます。中には辛い過去があってそれを引きずってしまうのも無理はありません。しかし、初めからそれをあきらめていてはいけません。かつて駄目だったからと言って、一生涯駄目だと言うことはないのです。神さまは多くのものを私たちのうちに備えて絶えず導いてくださいます。だから私たちの心をリセットして、アブラハムのような真っ白な心で神さまのみ言葉を受け入れてほしいと願います。できれば毎日聖書からみ言葉を受けられる習慣を持つようになることをお勧めします。神さまが私たちに「主の山に備えあり」という事実が判るでしょう。神さまにあって夢や希望を持ちましょう。皆さんの人生に「もうこれで満足だ」「もうこれでいい」ということはありません。どんどん発展し続けていくのが私たちの人生と言うものです。まだまださまざまなところで豊かに花開かせることができるのです。神さまは私たちに必要なものをすべて備えてくださいます。み言葉を信じて主の山を見上げていきましょう。