イザヤ書8:23-9:3;マタイによる福音書4:12-23
誰かが自分のことを理解してくれた。誰かが自分に期待をかけてくれたということを知ったときに、私たちに何か力が湧いてくることはないでしょうか。たとえば自分のやってきた仕事が認められたとか、他の人に誤解されるようなことがあっても、その人だけは自分の本当に良いところを知っていてくれたというようなときに、私たちは言葉にできないくらいの喜びをかみしめるものです。今日の箇所に出てくるガリラヤ湖で漁師の仕事をしていた4人は主イエスに出会って人生が変えられた人たちでした。漁師の仕事は地味で、経済的に豊かでもなくて、その仕事自体もあまり評価されなかったのです。彼らは自給自足の生活のために網を打って魚を獲っていたのかもしれません。彼らの住んでいたガリラヤという地方も「辺境」の地とされていて、あまり脚光を浴びるような土地ではありませんでした。
紀元前10世紀にイスラエルは、エルサレムを中心とする南ユダ王国とサマリアを中心とする北イスラエル王国に分裂しました。マタイ4章15,16節の「 」に入っている言葉は旧約聖書で預言者イザヤが語った言葉を引用しています。
「ゼブルンの地とナフタリの地、/湖沿いの道、ヨルダン川のかなたの地、/異邦人のガリラヤ、 暗闇に住む民は大きな光を見、/死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」。
イザヤは紀元前8世紀、北王国がアッシリアに滅ぼされていった時代の、南ユダ王国で活躍した預言者です。ガリラヤ地方はサマリアのさらに北にあります。イザヤの時代のユダヤ人から見れば、まさに「異邦人のガリラヤ」と呼ぶべき暗闇の地でした(「ゼブルンとナフタリ」とは、出エジプトをしたイスラエルの民が約束の地に入ったとき、ガリラヤ地方を割り当てられた部族の名前)。主イエスの時代のガリラヤ地方は、南のユダヤ人が入植して町を作っていたので、民族的にも宗教的にも南のユダヤ人と結びついていましたが、ユダヤの人々からは軽んじられていました(「ガリラヤから預言者は出ない」とヨハネ7:52にあります)。マタイは主イエスがこのガリラヤで活動を始めたことこそ、神の計画だと信じていました。マタイ福音書の終わりで復活したイエスが弟子たちに姿をあらわす場所もガリラヤの山でした(マタイ28:16)。
そういうわけで「暗闇」だとか「死の陰の地」などと、ずいぶんな言われかたをしていたところに住んでいた人びとのところに救い主がきて「光」が差しこんだというのです。主イエスのほうから、ガリラヤの漁師であった彼らに近づいていって19節に「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた、とあります。
青天の霹靂というのはまさにこういうことでしょう。このことを私たちのことに置き換えてみたいと思います。主イエスがやってきて、「わたしについて来なさい。お魚じゃなくて人間の心をとらえる漁師にあなたはなれるのだ」と言われたらどうするでしょう。みなさん自分の生活があります。家族がいたり、愛する人がいたり、誰かの面倒を見なければいけないかもしれないし、仕事も今ちょうど大きな仕事を抱えていてすぐにはやめられない……などと言ってしまいそうです。そのようなところに、主イエスが突然やってきて、このお方がどれだけ私のことを知っているのだろうか? と疑問も出てくるでしょう。でもこの漁師たち、最初に声をかけられたシモン・ペトロとアンデレの兄弟も、次に声をかけられたゼベダイの子ヤコブと兄弟ヨハネも「すぐにイエスに従った」とあります。そんなにすぐに生活やしがらみを捨てて行ける思い切りのいい人たちだったと言ってしまえばそれでおしまいですが、この箇所はそこを拙速に描いているようにも見えますが、漁師たちは主イエスの言葉と行動に触れて、彼に従うことを自分で決断した人たちだと考えるほうが自然かもしれません。
主イエスの人を見るまなざしとかその価値観というのは私たちとは根本的に違うところがあります。今日の箇所に登場する主イエスに従う漁師たちと言うのは、自分で主イエスを捜し求めて、ようやく見つけて「弟子にしてください」と言って弟子に立候補したわけではありませんでしたし、また特別な能力があって主イエスのほうから「弟子にしましょう」と認められたわけでもありませんでした。ただ、主イエスのたった「ひとこと」によって従っていった人びとです。ここがまず私たちと違うところです。たとえば私たちであれば、何か人ができないような働きをしたとか、有名な大学を卒業しているとか、普段から人のそういうところばかりを見てしまいがちです。一緒に仕事をするならば、優れた人のほうが自分にとっても良いだろう……などという価値観を持ち続けているといえないでしょうか。
しかし、主イエスはそういう視点には立っていなかったのです! 彼の語る神の国にはむしろそういった価値観は必要のないものでした。人間を取る漁師――これは現代に生きる私たち一人一人にも語られていることでありますが――その人の規準を決めるようなことは何もされませんでした。主イエスは試験をなさるようなことはありませんでした。ありふれた、ごく普通の人々を弟子として用いられました。言ってみれば彼は普通の人を用いるプロでした。人間の内面をよく知り、それぞれの賜物を生かし、人々を用いられました。この時代にもさまざまな人がいたことでしょう。付き合いやすい人、そうでない人、でも主イエスは一人ひとりのことをよく理解され、一つに結び合わせておられました。福音書を読むと、所々で主イエスが、弟子たちをたしなめたり、失望したりする記事がありますが、それでもリーダーシップをとって弟子たちを用いておられました。
皆さんは自分の長所や短所をすぐに挙げられるでしょうか。自分の中で好きなところはどこでしょうか。それともいつも未熟で欠点だらけの自分に辟易しているでしょうか。 自分のことだから自分がいちばん良く知っていると思っているかもしれません。でももしかしたら自分が知っている自分のことは、案外、一部分だけかもしれません。本当はもっともっと素敵なところや素晴らしい力があるのに、それに気づいていないのではないでしょうか。
実はこの「私」のことは自分よりもはるかに、人間のいのちを創ってくださった神がご存知です。神はすべてを知っておられます。私たちは誰もが素晴らしくて、素敵な人間です。聖書の言葉にこういう言葉があります。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ書43章4節・新改訳)。素晴らしく、素敵な人とはどういう人を指すのでしょうか。お金持ちですか。容姿端麗な人ですか。高学歴の人でしょうか。あるいはいい家族やパートナーに恵まれている人でしょうか。でも今、私が挙げたことはみんな目に見える表面的なことばかりです。自分はなぜこの世に生まれて、生きているのでしょうか。そのことがもうすでに神が皆さんを愛してくださっているというしるしです。神は無駄なものはおつくりになりません。皆さんが今ここにいるということが素晴らしいことなのです。
私たちが神から与えられているのは、今ちょうど炭の端っこに火がついているのと同じです。神が息を吹きかけてくださって、これをもっともっと大きな炎にすることが誰にでもできるのです。私たちは神に出会って輝く人になることができます。人がうらやむような素晴らしい自分になることができるのです。そのときになって必要なものは添えて与えられます。私たちは最終的に神が添えて与えられる目に見えるものにばかり執着してしまっていて、本来の自分の素晴らしさや美しさを見つけ出すことができないでいるのではないでしょうか。
今日の箇所で主イエスは17節「悔い改めよ、天の国は近づいた」と言われています。これは主イエスご自身が4人の漁師たちのもとに近づいていったように、私たちに今、神のほうから手を差し伸べて、招いてくださっています。主イエスは「わたしについて来なさい」と皆さん一人ひとりに呼びかけておられます。先ほどご紹介したイザヤ書の言葉「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と今日も神は皆さんに呼びかけておられます。これは人の目にはどう映ろうとも、神の目にはあなたは大切なひとりとして映っているのだと言われるのです。たとえ人があなたのもとから離れていくようなことがあっても、神はずっとかたわらにいて私たちを愛してくださっています。私たちは神の愛に甘えていいのです。なぜなら神が私たち人間を創られた、言うなれば親だからです。親のすねをかじるのではない……私たちは神の招きに応えて、主イエスの弟子として歩み出すときに、神の懐で愛の人に変えられて、素晴らしい輝きを放つことができるのです。