アンデレ一覧

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「イエスの弟子として」マタイ4:12-23 中村吉基

ガリラヤという「暗闇」とまで言われた辺境の地の漁師であった4人の人生が変わっていく。彼らは弟子になりたいと思っていたわけではなく、イエスの方から「人間をとる漁師にしてあげよう」と言われてすぐに従っている。自分の生活があるのに、彼らも主イエスに触れて従うことを自分で決断したのかもしれない。イエスの人を見方や価値観というのは私たちとは根本的に違う。人ができないような働きや有名な大学等ではない。ごくありふれた普通の人を弟子にしている。それぞれの賜物を生かし、時々弟子に失望しながらも、弟子たちを用いた。我々は自分のことは自分が知っていると思っているが、人間のいのちを創ってくださった神の方がはるかにご存知である。神は無駄な物はお創りにならない。つまり今生きていることこそ、神が愛してくださっているというしるしなのである。私たちは神に出会って輝く人になる。今日の箇所には「悔い改めよ、天の国は近づいた」ともある。主イエスが4人の漁師たちに近づいていったように、神のほうから招いてくださっている。私たちは神の招きに応えて、主イエスの弟子として歩み出すときに素晴らしい輝きを放つことができる。

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「来なさい、そうすれば分かる」ヨハネ1:35-42 中村吉基

今日の箇所はとても単純に見えるが、とても素晴らしい出来事をたった20行足らずに押し込めてあるので、想像力を掻き立てて向き合わなければならない。ヨハネの「神の小羊」という信仰告白を見、イエスに従った弟子たち2人(ひとりはアンデレ)は従って行き、泊まっていた場所に留った。「来なさい、そうすれば分かる」(39節)というイエスの言葉は滞在場所を見せてたかったのではない。そのご性質やお人柄を通して指さす先の神を示してくださったのである。またこの2人もイエスの宿泊先ではなく、主ご自身を知りたかったのである。2人が主イエスのもとに泊まった時、何があったか定かではないが、アンデレはシモンに「わたしたちはメシア(中略)に出会った」といい、シモンを主イエスのもとに導く。この「泊まった」という言葉はぶどうの木の譬えの「わたしにつながっていなさい」と同じ動詞である。2人にイエスはつながってくださったのである。主イエスを心に宿した人は変えられていき、神の力が顕されていくのである。