創世記9章8~17節、ルカによる福音書11章33~41節
会堂の皆さん、そしてオンラインで礼拝に参加されている皆さんおはようございます。
寒河江健と申します。千葉の四街道教会で牧師をしております。本日は代々木上原教会の教会カンファレンスにお招きいただき、上原教会の初代牧師であった赤岩栄が今を生きる私たちに投げかけているものに共に思いを向けたいと思います。このような機会を与えられ、皆さんとご一緒に礼拝が捧げられますことを大変嬉しく思っております。
さて私たちの教会の暦では先週の日曜日に新年を迎え、聖霊降臨節から降誕前節に切り替わりました。そこから私たちは9週間、救い主イエス・キリストの誕生を祝う降誕日(クリスマス)までの道のりを歩んでいきます。日本基督教団が定めた聖書日課を見ますと、本日の主日礼拝では「保存の契約(ノア)」という主題が付けられています。契約というのは分かりますよね。例えば私たちが携帯電話会社に行ってスマートフォンを買う時に月々の料金はいくらですよ、途中で解約した場合の違約金はこうですよという契約を結ぶその契約のことです。では保存はどうでしょう。スーパーなどに買い物に行かれる方は冷蔵保存とか冷凍保存の食材を買うのですぐにピンとくるかもしれませんし、あるいはパソコンなどを使われる方は文書やパワーポイント資料を作成したら必ず保存するのでその保存かと納得することでしょう。余談ですが私の知り合いのある牧師さんは雷鳴鳴り響く土曜日にパソコンで必死に説教の原稿作りをしていたところ、なんと家に雷が落ちましてブレーカーが飛んでしまい説教原稿が無くなってしまったという悲惨な経験をしました。冷蔵保存の必要な肉や魚を常温で置いておいたらすぐに腐ってしまいますし、アイスや氷はすぐに溶けてしまいます。そしていくら素晴らしい説教原稿を作っても、保存の前に雷に打たれたら綺麗さっぱり無くなってしまうのです。保存は大切な働きですね。
本日のテーマである保存の契約というのは要するに神さまが私たち人間と世界を保存してあげよう、腐ったり溶けたり無くなったりしてしまわないようにあなたたちの存在を保ってあげるという契約を結ばれたということです。そのことを思い起こすために今日はヘブライ語聖書の創世記に記されたノアの箱舟の物語の結論部分が読まれました。皆さんは創世記6章から記されているノアの箱舟のお話をご存知でしょうか。大筋を説明しますとまず地上に人が増え始めます。しかしその人たちは神さまの目から見ると常に悪いことを考えている人たちでした。神さまは人を造ったことを後悔して心を痛め、人間を動物ごと地上から滅ぼそうと決心して世界を飲み込む洪水を引き起こします。しかし神さまはその世代の中で神に従う無垢な人であったノアを選んで大きな箱舟を作らせ、そこにノアの家族と全ての動物をペアにして入れるように命じて箱舟の中の生き物だけは生き残らせます。洪水の後には生き残った人間と動物たちが再び繁栄していくのです。
世界を飲み込んだ洪水が終わって水が引くとノアたちは箱舟の外に出ます。箱舟を出たノアはまず先に祭壇を築き、鳥を焼いてその香りを捧げて神を礼拝します。神はその香りを嗅ぐとノアに言います。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい」(8章21節)。そして神はノアと彼の息子たちを祝福し(9章1節以下)、ノアたちとその後に続く子孫との間に保存の契約を立てるのです。神が人間との間に「契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって血を滅ぼすことも決してない」(11節)と語られています。さらに神と人間との間の契約のしるし、証拠として神は「雲の中にわたしの虹を置く」(13節)と宣言されます。それは神さまと人間そして地上の全ての生き物との間の契約の証拠であり、神はそれを見ると永遠の契約を心に留めて再び洪水によって生き物全てを滅ぼすことは決してないと語られています。
私たちが空にかかる虹を見るたびに神と地上の生き物との間に交わされた永遠の契約を思い起こすことができるというのは私たちにとってうれしいことなのですが、実は聖書をよく読んでみると事はそう単純ではありません。というのもここで「虹」と訳されているヘブライ語(תֶקש ケーシェト)は「弓」という意味でしかないのです。日本語の聖書では伝統的にこの語を「虹」と解釈してきましたが、標準的なドイツ語聖書や英語聖書ではここを単に「弓」と訳しており、例えば英語だと「レインボウ(虹)」ではなく「ザ ボウ(弓)」と訳しています。そうすると私たちが日本語で聖書を読んだ時にこの箇所に抱くイメージと聖書そのものが私たち読者に伝えたいイメージが同じなのかどうか怪しくなってきます。雲の中に弓を置くとはどういうことなのでしょう。虹であれば私たちがそれを見るたびに神さまとの永遠の契約を思い起こすことができるのですが、そもそも聖書をよく読んでみると、雲の中の弓を見るのは人間ではなく神です。確認のため14節以下を読んでみます。「わたしが地の上に雲を湧き起こらせ、雲の中に虹が現れると、わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、すべて肉なるものとの間にたちた契約に心を留める。水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない。」つまり雲の中の弓は人間ではなく神がそれを見てもう二度と洪水によって地上の生き物を滅ぼさないという契約を思い起こすためのしるしとなっています。
弓は狩猟目的で用いられることもありますが一般的には戦闘の際に用いられる武器です。神さまはもともと地上に増えすぎた人間が神さまの目に悪とされることばかり考え行ってきたために動物もろとも人間を滅ぼしました。神の鉄槌、弓が引かれたのです。生き残った唯一の人間はノア一族です。では彼らは神の目に悪とされることを一切行わない善人でしょうか。答えは違います。ノアたちも紛れもない人間なのです。良い部分もあれば悪い部分もあります。私が思う聖書の本当に素晴らしい所は人間を偶像化、英雄視せずにすべての部分がさらけ出されている点です。ヘブライ人への手紙に「神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されている」(4章12節)と記されている通りです。ノアも本日の箇所の直後、9章18節以下ではワインの飲み過ぎで素っ裸になって寝てしまうという何とも情けない姿が描かれています。どんなに普段の姿が素晴らしくても飲むと仾変する人、酔っ払うと素っ裸になる人とは一緒に酒を飲みたくないですよね。さらにここには息子のハムが酔っ払って素っ裸で寝ていたお父ちゃんに何かイタズラをしたみたいでハムの息子の「カナンは呪われよ 奴隷の奴隷となり、兄たちに仕えよ」とかなり怒られています。
神さまの前に正しい者は一人もいません。全ての人に良い部分、悪い部分、素晴らしい部分、欠けている部分があります。しかし神さまはそのような人間を恵みによって赦し、受け入れてくださるというのが聖書の福音です。もはや人間の悪い部分に心を痛めて人間に向かって弓を引かないために、神さまは雲の中に弓を置きました。神がそれを見るたびに私たちとの間に交わした永遠の契約を思い起こすから私たちはいまもこうして生かされています。私たちが正しい人間だから、信仰に忠実だからということではなく、神さまが交わされた保存の契約という神さまの恵みによってのみ生かされているのだということを心に留め、神さまへの感謝の思いを持って他者に対して高慢ではなく謙遜に生きたいと願います。
そもそも創世記に記された天地創造の物語やノアの箱舟の話などが最終的に出来上がったのはバビロン捕囚後だと考えられています。バビロン捕囚とはユダ王国というイスラエルの民の国家がバビロニアに滅ぼされ、王侯貴族たちが敵国の都バビロンに強制連行されるという重大な出来事です。この時にイスラエルの宗教的なシンボルであったエルサレム神殿も破壊されてしまいました。捕囚を経験した人たちにとってそれはまさに自分達の世界が滅亡したと感じさせるような大きな衝撃だったと思います。彼らは約50年という長い年月を経て廃墟となって荒れ果てた故郷エルサレムに帰還を許されますが、やはりその前後に彼らの希望となる神の言葉が必要だったのでしょう。天地創造物語は混沌から神の言葉によって秩序が生み出されていったことが語られます。廃墟エルサレムを再建するために必要な希望の物語です。ではノアの箱舟物語はどうでしょう。イスラエルの民が住むパレスティナには河川氾濫を起こすような川はありません。洪水物語は例えばナイル川を擁するエジプトやチグリス・ユーフラテス川を擁するメソポタミアの地域で語り継がれてきた物語です。世界四大文明(エジプト、メソポタミア、インダス、黄河)はすべて大きな川を擁しており、その川が氾濫することで肥沃な大地を生み出し発展してきました。ですから古代の洪水物語には破壊と再生というモチーフが伴っています。
パレスティナに住むイスラエルの民には元々洪水物語は無かったはずですが、彼らはおそらくバビロン捕囚の時に洪水物語に接したのでしょう。古代メソポタミアの文学作品であるギルガメシュ叙事詩の中には洪水物語が記されており、読んでいただくとわかるのですがノアの箱舟の話と共通している部分があります。おそらくイスラエルの民はギルガメシュ叙事詩にある洪水物語を下敷きにしてノアの箱舟の話を紡いだわけですが、ギルガメシュ叙事詩の洪水物語とは決定的に異なる部分があります。私はそこにこそバビロン捕囚を経験したイスラエルの民が強調したい大切な部分があるのだと思っています。ではそれは何でしょう。大きな違いは洪水後に生き残った人物に対する記述です。ギルガメシュ叙事詩では洪水後に生き残ったウトナピュシュテムというノアのような人が神々のような存在になります。これは私たちの心境的にもよく分かりますよね。大きな災害や事故などから奇跡的に生き残った人たちに対して何とか自分の脳みそで処理するために、この人たちは特別な人たちだったんだ、生き残るよう選ばれた素晴らしい人だったんだと考えてしまう脳の働きです。でもそこには生き残れなかった人たちとその家族に対する配慮が決定的に抜け落ちています。別に素晴らしい特別な人だから生き残ったのではありません。私たちには説明できないさまざまな事柄が重なって助かっただけなのです。
ギルガメシュ叙事詩にある洪水物語に対して聖書の洪水物語の結末は先ほどお話しした通りです。ノアがワインを飲みすぎて素っ裸になって寝てしまうという醜態をさらす話で終わります。洪水から生き延びたノアはあくまで普通の人間のままなのです。ここには明らかにギルガメシュ叙事詩に相対する想いが込められています。先ほどノアの箱舟の話がバビロン捕囚後に最終的に完成しただろうと話しました。バビロンからエルサレムに帰還した人々は水が引き箱舟から降りたノア一族と心境を重ねたに違いありません。彼らはユダ王国が滅び自分達がバビロンに捕囚されたのは神さまの恵みと守りの中で生かされていたにもかかわらずそれを忘れて高慢になっていたからだと考えました。人の悪が増し、常
に悪いことばかりを心に思い計っている状況を神がご覧になって、ついには神がバビロニアによってユダ王国を滅ぼしたと考えたのです。しかし同時に神はイスラエルの民を全て滅ぼすということはなく、バビロンという箱舟に乗せて彼らを生かして長い歳月を経てエルサレムへと帰還させました。そこで彼らは強く思ったのです。「もう自分たちは神に選ばれた特別な民なのだと思い上がってはいけない。神が私たちを保存するという契約を交わしてくださり、雲の中に弓を置いてくださったから私たちは生かされているのだということを心に留めよう。」
エルサレムに帰還したイスラエルの民は色々と苦労はしますが再び増え広がっていきます。そのような状況の中で彼らは同じ轍を踏まないようにとの思いでノアの箱舟の物語を紡いだのでしょう。「神に選ばれて箱舟を作り、洪水を免れたノアは他の人と比べて特別ということでは決してないんだ。ただ彼は神さまの好意を得たから(6章8節)、神さまの恵みによって選ばれただけなんだ。洪水後にはノア一族が繁栄して地上に増え拡がっていくけれどそれはひとえに神さまの祝福あってこそなのだということを忘れないようにしよう。長い捕囚を終えてエルサレムに帰還した私たちはもう二度と高慢にならず謙遜に生きていこう。」
ルカによる福音書では「体のともし火は目である」という主イエスの言葉が読まれました。「目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。」私たちの目は雲の中においた弓を見て私たちと交わした永遠の約束を思い起こしてくださる慈しみ深い神を見つめます。洪水物語に込められた謙遜の思いを忘れ、再び神の目に悪とされる生き方をしていたイスラエルの民に向かって神の怒りの弓を引くことなく、イエス・キリストの十字架を通して怒りを宥めてくださった神の愛を見つめます。それらを見つめて生きる時に私たちは高慢になって他者を裁いてしまうことなく主イエスの謙遜を衣として身にまとい、闇のように暗いこの世界にあって世の光である救い主イエス・キリストを全身に輝かせて辺りを明るく照らすことができるのでしょう。
祈りましょう。「知恵ある唯一の神に、イエス・キリストを通して栄光が世々限りなくありますように、アーメン。」