「自分を献げる」ルカ2:15-21 中村吉基

イザヤ書9:1,5-6;ルカによる福音書2:15-21

クリスマスの光の中で迎える新しい年

皆さん新年おめでとうございます。日本国内ではクリスマスの飾りが取り払われ、すっかりお正月のムードに変わっていますが、教会ではクリスマスの祝いが続いています。クリスマスの祝いは1月6日の公現日まで続きます。教会はお生まれになったイエスさまの光の中で新年を迎えたと言えるでしょう。特に1月1日はイエスさまの命名の日を祝います。今日の箇所の21節にもあるように誕生した幼子が8日の後に割礼を受けて、「イエスと名付けられた」。とあるからです。

さて私たちにも名前はあるわけですが、皆さんの名前は誰が付けられたのでしょうか? ご両親でしょうか、祖父母でしょうか? あるいは知り合いの高名な方につけてもらったという方も居られると思うのですが、イエスさまの場合はそのどれにも当てはまりません。

「イエス」と名付けられた救い主

ルカによる福音書の1章30節以降にあります。「天使は言った。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」。これは天使ガブリエルがマリアに告げた言葉として記されています。ガブリエルが生まれてくる幼子を「イエス」と名付けるように仰せになりました。そしてマリアもヨセフもそのお告げを心に納めていた訳ですが、お告げ通りに幼子が生まれて8日後に命名するのです。ユダヤの男子(すなわちユダヤ教徒)はこの時代も現在でも生後8日経った時に割礼を受け、その際に父親によって命名されるのです。さて、この「イエス」という名ですがヘブライ語で「神は救い」の意味を持つ「イェホーシューア」から来ています。旧約聖書にヨシュアという人が出てきますが、それと同じ名前です。珍しくない名前だったようです。旧約聖書がギリシア語に翻訳された時に「イエースース」、そしてラテン語では「イエスス」、皆さんご存知の英語では「ジーザス」となるわけです。

さて、今日のルカによる福音書を通して羊飼いとマリアの姿を通して私たちの信仰を考えてみたいと思うのです。新しい年の初めに、私たちがどのような信仰態度をもってこの1年を進んでいくのかをご一緒に神から示されたいと願っています。

羊飼いたちに学ぶ、信じて行動する信仰

まず、羊飼いたちです。救い主の誕生が最初に告げられたのは貧しい羊飼いたちでした。大勢の天使たちによって「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」(ルカ2:11)と告げられました。羊飼いたちは天使の言葉を信じました。そしてその幼子こそ我らが長い間待ち望んだ救い主だという思いを抱いてベツレヘムへと急いで駆けつけたのです。

私たちが天使のお告げを受けたらどうするでしょうか? すぐに信じることができるでしょうか。そしてその出来事の中に神のみこころを直感的に感じ取ることができるでしょうか。物事を冷静に考える人、悲観的に考える人はすぐにベツレヘムへ駆けつけることができたでしょうか。羊飼いたちの姿を見るときに、私たちはあらゆる出来事を通して神は私たちに働かれ、またそれは予期もしないときに起こりうるのだということを知るのです。そしてその出来事を通して実現される神の深いご計画、私たちへの愛を見出すことができたならば、私たちは大きな希望と喜びを手にすることができるのです。羊飼いたちの先祖たちの時代から、神を信じ続ける民に救い主が与えられることを信じ貫いてきました。いよいよそれが彼らの代になって実現したのです。

そしてマリアとヨセフ、飼い葉桶に眠る幼子のもとに駆けつけた羊飼いたちはどうしたのかというと、17節「その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた」とあります。喜びの知らせを独り占めにはしなかったのです。喜びを周りの人たちにも伝えていったのです。

18節にありますが、人びとは羊飼いの話を不思議に思いつつ聞いたのです。なぜ不思議に思ったのでしょう。「驚いて聞いた」と訳している聖書もあります。羊飼いたちの言ったことが馬鹿げた信じ難い話だったからでしょうか? 

私はこのように思います。羊飼いという職業は当時の社会で最も貧しく差別されていた人たちでした。彼らの話を聞いた人たちの中には、「なぜ自分たちよりもあの卑しく汚れた羊飼いたちが救い主を最初に拝むことができたのか」。あるいは「救い主ともあろうお方が家畜小屋のようなところでお生まれになるわけがない」という意識をもって聞いたのではなかったかと思うのです。

しかし羊飼いたちは20節「見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行」きました。神の愛はいつ、どこに現れるのか判りません。しかし、これだけは言えます。神は悲しむ人、苦しんでいる人、病んでいる人、そして差別されていた人たちの味方である、ということです。

羊飼いの行動を整理してみますと、①羊飼いたちは神の言葉を幼子のような無色で柔らかい心で聞きました。怖れは抱いたでしょうが懐疑心はありませんでした。私たちも柔らかな心を持って神の言葉を聞きましょう。②自分たちでその喜びの知らせを独占しないということです。神を賛美し、周りの人に神を証言して歩きました。羊飼いの周りは彼らを差別していた人々が多かったにも関わらずに…です。ここから私たちは学びたいと思うのです。人を分け隔てすることなく、教会の手を、私たちの手を周りの人に伸ばしていかなくてはいけないと思うのです。

マリアに学ぶ、心に納めて委ねる信仰

さて今度はマリアの行動から学びたいと思います。

羊飼いたちは救い主に出会い、神をあがめ賛美しながら帰っていきました。しかし、19節を見てください。そのときマリアは「これらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」とあります。羊飼いたちとは随分対照的です。これに似た言葉をルカは別のところで紹介しています。2章の終わりのところでイエスが12歳の時に神殿で学者たちを相手に問答していた時のことでした。イエスを見失っていたマリアはようやくそこでイエスを見つけます。しかし、わが子の返答に戸惑い「母はこれらのことをすべて心に納めていた」(2:51)。おそらくマリアにとってはイエスをめぐって起こることのひとつひとつが不思議に思えたのかもしれません。驚きの連続だったのでしょう。しかし、マリアは大きな神のみ業に自分を献げます。マリアが勝負に打って出たと言ったら大袈裟でしょうか。

しかし、生まれてきた幼子は家畜小屋のような貧しい場所で誕生します。偉大なメシアとはかけ離れたような場所でした。一夜の宿さえもなかったのです。そしてその後に追い討ちをかけるようなことが起こります。ヘロデ王が生まれた幼子を探し当てて殺そうとしていたために一家はエジプトへ逃れて行かなければなりませんでした。神が宿してくださった救い主が暴君の手にかけられようとするなどとは思ってもみなかったはずです。しかしマリアはその出来事のひとつひとつに心を注いでいたと言えます。何が起こるかは判らないけれども、神の遣わした天使の言葉を信じ、また羊飼いたちが話していたことを信じて神に委ねていきました。

イエス・キリストの救いは歴史の中で少しずつ展開していきました。マリアがすべてのことを「心に納めた」からこそ、神の力と愛が貧しい中で、苦しみの中で繰り広げられていきました。マリアの行動は、目の前で起こる出来事をしっかりと「神のみこころ」として捉えようとしました。神の業に、自分の人生を結び付けていこうとしました。そしてイエスの生き方と運命に自分を合わせていこうと願っていたのではないでしょうか。

ここで私はあのミケランジェロの「ピエタ」の像を思い起こします。十字架で死なれたイエスさまの亡骸を抱きしめている母マリアの像ですね。愛する子を失った悲しみは如何ばかりかと思うと、それは計り知れませんけれどもそれをも「みこころ」として乗り越えていこうとする思いがピエタの像にはたたえられているような気がします。完全な自己奉献(自分を献げる)をここに見る思いがします。羊飼いたちとマリアから私たちの信仰の模範を学ぶことができたら幸いです。

こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。(ローマ12:1 新共同訳291ページ)。

「ひとり」のために座布団を差し出す教会へ

最後に、以前関田寛雄先生からお聞きしたお話を紹介したいと思います。それは奥羽の雪深い地方のある伝道所のお話でした。なかなかキリスト教が根付かない地域です。礼拝出席はわずかの人数のところです。ここに心の病に長い間苦しんでいる方が集っているそうです。その人は喜んで教会に来ているそうです。自分用の座布団を持って教会に来るそうです。小さな群れですがそのような「ひとり」が受け入れる場をその伝道所がちゃんと作っている。開かれた教会になっている。そう、私たちは「座布団」を用意して、来られた人にはそれを差し出す教会になりたいのです。決して小さな群れでも教会堂を持っていなくても、「ひとり」の人が安らげる教会になることが新しい年の課題であると思っています。

私たちも羊飼いたちのように神の言葉を信じて一歩を踏み出し、マリアのようにすべてを心に納めて神に委ねつつ、この新しい一年を歩んでまいりましょう。神は今も、ひとりひとりの歩みの中に救いの光を灯してくださっています。