イザヤ書2:1-5;ヨハネによる福音書18:1-11
今朝もご一緒に礼拝を捧げる恵みに感謝します。皆さんの顔が礼拝で見られることは「当たり前」のことではなく、奇跡かもしれないと言ったら大袈裟でしょうか。でもこの日曜日の礼拝から次の礼拝まで、私たちはそれぞれの場所で生きることをゆるされて、またこうして魂の家である教会に帰ってくることは当たり前のことではないのです。
「こどもさんびか」(105番)に「今日もみんなに会えました。いっしょにさんびか歌いましょう。こえをそろえてうたいましょう」というさんびかがあります。
とても微笑ましい歌詞なのですが、昨年の夏にお顔を合わせていた方々が、この1年の間に天に召されたり、病を得られたりして会えなくなってしまっていること……それが私たちの現実です。しかしこうしてこの教会で神さまを礼拝し続けていることは奇跡以外の何ものでもないと思いますし、これこそ「平和」な出来事だと思うのです。
今日のメッセージのテーマです。皆さんは「先の見えない時」ってどんな時だと思いますか? それは、将来がどうなるか分からない不安な時、悲しみや心配で心がいっぱいになる時、何を信じて進めばよいのか分からない時です。今、私たちが生きているこの世界は、まさにそんな「先の見えない時」の中にあるように思います。
先ほど、詩編23編を交読しました。
19世紀イギリスの大伝道者と呼ばれたスパージョンという牧師がいました。「詩編の真珠」とこの23編のことを呼んだのだそうです。詩編には150編の詩(うた)が収録されています。聖書の中で一番長い書物です。その中でもこの23編は最も有名な箇所と言っても過言ではありません。
冒頭に「ダビデの詩」とあります。しかしダビデが作ったかどうかは不明です。ダビデという力強い王様の名を冠しているのかもしれませんが、ダビデ王は弱さや欠点だらけの王様でした。そういうことを包み隠さずさらけ出して、子どものように神さまを信頼した信仰者だったダビデの名をここに記してこの詩編を歌いました。かつてダビデは羊飼いの少年でした。しかし、神さまこそ自分の羊飼いなのだと1節で言っています。そして自分は羊のように弱く、迷える者だけれども、神様を羊飼いとして従う時、「わたしには何も欠けることがない」と飢え乾くこともないし、たとえ道に迷っても神さまが正しい道を示してくださり、困難に出合っても必ず助け出されるのです。神さまはそういう恵みで私たちを満たしてくださるお方だというのです。
「主は(わたしの)羊飼い」。明治時代の文語訳の聖書では「主はわが牧者なり」と訳されていました。また2018年の「聖書協会共同訳」では「私の」という言葉が復活して「主は私の羊飼い」と訳されました。まさに「主は私の羊飼いである」と私たちが歌う時、誰もが「先の見えない時に」神さまは私たちに先立って、またある時はしんがりとなって、私たちを導いてくださるお方です。
今年は戦後80年目の夏です。8月6日は広島に、8月9日は長崎に原子爆弾が落とされました。そして8月15日は、日本が戦争に負けた日、いわゆる「敗戦記念日」です。戦争によって多くの命が失われ、今もその悲しみが続いています。だからこそ、私たちはこの時に「平和」について考える必要があります。
今日の聖書箇所のひとつは、旧約聖書のイザヤ書2章1~5節です。ここには、神さまが与えてくださる「完全な平和」について書かれています。
イザヤの預言からです。イエス様が生まれる700年以上も前に活躍していた預言者です。2~5節を見てみましょう。
2 終わりの日に
主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち
どの峰よりも高くそびえる。
国々はこぞって大河のようにそこに向かい
3 多くの民が来て言う。
「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。
主はわたしたちに道を示される。
わたしたちはその道を歩もう」と。
主の教えはシオンから
御言葉はエルサレムから出る。
4 主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。
彼らは剣を打ち直して鋤とし
槍を打ち直して鎌とする。
国は国に向かって剣を上げず
もはや戦うことを学ばない。
5 ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。
預言者イザヤはこう語ります。「終わりの日に、主の神殿の山がどの山よりも高くそびえ、すべての国々がそこに向かって集まってくる」と。これは、世界中の人々が神さまを礼拝するために集まり、神さまの教えに従って生きようとする姿です。
そして、神さまが国々の争いを正しく裁いてくださると、剣(つるぎ)は鋤(すき)に、槍(やり)は鎌(かま)に打ち直されると書かれています。つまり、神によって「戦う」人を殺めるための武器が、「いのち」を育てる農具に変えられるということです。争いや戦いがなくなり、人々はもう戦争を学ぶ必要がなくなるのです。なんと素晴らしい世界でしょうか。
アメリカのニューヨークに行きますと、街の真ん中に国連のビルがあります。この4節の言葉は、国連ビルの前にある壁に刻まれています。そしてそこには剣を鋤に変えている人間の彫像が立っています。第2次世界大戦が終結した直後に、これから二度とむごい戦争をしないという決意からこの言葉が選ばれて、そこに刻まれたのでしょう。
このイザヤの言葉は、イエスさまにも深く影響を与えたはずです。イエスさまは、敵対者たちに捕らえられ、十字架に架けられる直前、弟子が剣で敵を攻撃しようとした時にこう言いました。それが今日のヨハネによる福音書18章11節に記される言葉ですが、「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか」。4つの福音書がこの同じ場面を記していますが、マタイによる福音書には少し違った観点で記されています。ここにイエスさまを捕らえた者に対して、イエスの側近が剣を抜いて大祭司の手下の片方の耳を切り落としたと言う残忍な事件が記されているのですが、その時イエスさまは「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」のだと(26:52)たしなめられました。
イエスさまは暴力で争いに勝つ道ではなく、神さまの愛とゆるしによって平和をつくり出す道を選ばれました。たとえそれが十字架という苦しみの道であったとしても、神さまの正しさと平和を信じて従われました。
今年、私たちの日本基督教団と在日大韓基督教会は「2025年平和メッセージ」を出しました。そこにはこう書かれています。「私たちは“平和”が損なわれている世界にあって、小さくされ深い傷を負い、あるいは命を奪われた人々の声を再−現前する(re-present)者であることを望みます」とされています。「再−現前」という言葉は聞き慣れないものですが、「再び現在に示す」とか、過去の出来事を現在の場に生きた形で表すということでしょうか。これはとても大事なことです。私たちが教会として語るべき声は、力のある人の言葉ではなく、苦しんでいる人、忘れられている人の声を代弁するということです。過去の戦争を思い出し、誰の痛みに心を寄せるのか。忘れてはいけないことがあります。
私たちの力では、すぐに世界を変えることはできません。でも、今日から、私たちのまわりにある小さな平和を大切にすることはできます。このメッセージの冒頭にお話ししました。今日ここでみんなに会えて共に神さまを礼拝することも小さな平和です。そのほかにも、争いを避けて話し合うこと。困っている人に手を差し伸べること。差別やいじめに声を上げること。誰かをゆるすこと。こうした日々の行いが、預言者イザヤの言う「剣を鋤に変える」ということはそういうことなのです。それが平和への第一歩なのです。
イザヤ書の最後にはこう書かれています。「ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう」。これは、「今は暗くても、神さまの光がともっているから、その光に導かれて歩もう」という呼びかけです。
たとえ先が見えなくても、神さまは私たちと共にいてくださいます。神さまの光の中を歩く時、私たちもまた平和の道を歩むことができます。この8月、戦争の記憶を新たにしながら、神さまの示される平和の道を信じて、共に歩んでいきましょう。
「2025年 日本基督教団・在日大韓基督教会平和メッセージ」はここからごらんください。