ヨエル書2:23-3:2;使徒言行録2:1-13
皆さん、ペンテコステおめでとうございます。
私たちは今日、教会が誕生した日といわれる聖霊降臨日(ペンテコステ)を祝っています。
エルサレムに弟子たちが集まっていたその時、突然、「激しい風が吹いてくるような音」が天から聞こえ、彼らの上に「炎のような舌」が現れ、それぞれの上にとどまった――そして弟子たちは“霊”に満たされ、異なる国々の「ことば」で語り出しました。
この不思議な出来事を「奇跡の出来事」あるいは「教会の始まり」として、使徒言行録に記されています。けれども、私はこのペンテコステの物語を、「ことばの壁を越えて、人が人と出会い直す出来事」として、改めて受け取りたいと思うのです。
当時、世界各地からユダヤ人たちが巡礼のためにエルサレムに来ていました。彼らはそれぞれに違う母語を話していました。そんな中で弟子たちの口から語られたのは、誰もが自分の「故郷のことば」で聞いた神の大きな働きでした。
「どうして、あの人たちは私たちのことばを話せるのか?」
「いったいこれは何なのか?」
「彼らは新しいぶどう酒に酔っているのではないか?」
と、驚きと困惑の声が上がります。
しかしこれは、単なるおとぎ話ではありません。聖霊の働きによって、ここに居合わせた人々は弟子たちが話す、いわゆる他者の「ことば」を通して、神の業を聞き取るようになった――それは、分断されていた人間関係の壁が、神の力によって破られたということなのです。
「東京プライド2025」というイベントが昨日と今日、代々木公園で開かれているのをご存じでしょうか。「東京プライド」は、LGBTQ+の人たちが安心して自分らしく生きられる社会を目指す、日本で最大級のフェスティバルです。「性のあり方や生き方はいろいろあっていいよね」ということを、みんなでお祝いし、伝えていくイベントです。
1990年代からその前進が始められ、名称やかたち、開催時期なども変遷して今日のかたちになっています。ひと頃私もこのフェスティバルに協力をしてきました。その頃のことを思い出してみると、多国籍な参加者たちと出会いました。リトアニアからの留学生やイギリスの方などとも話し、実に国際色豊かな場であることを実感しました。北米や南米、ヨーロッパ各国、アジア諸国などの大使館もブースを出展し、「国境を越えて手を取り合い、誰もが自分であることを誇れる世界を創ろう」とこの一人一人が持つ「誇り」それがプライドという名の所以ですが、もちろん日本人の参加者たちと共に、実にフレンドリーな雰囲気が広がっていました。
会場内でこんなことがあったのをよく記憶しています。あるアメリカ人の方が「Are you a pastor? (あなたは牧師?)」と声をかけてくれました。「はい」と答えると、彼は「ありがとう。あなたのような牧師がいてくれて、本当にうれしい」と、目を潤ませながら語ってくれました。
別の方は、韓国語で「神様はあなたを愛しています」という私たちの発信していたメッセージを見て、「これは韓国語ですよね?」と驚き、そこから短い会話が始まりました。また私の連れ合いに声をかけてきたリトアニアから来た国費留学生の方は、母国に帰られた後、今も私たちと交流を持っています。言葉の壁がありながらも、互いに笑顔を交わし、温かい交流が生まれました。それはまるで、ペンテコステの日に起こったような「出会い直し」だったと、私は感じました。
かたや私たちの教会にも、さまざまな国や地域出身の方が訪れます。様々なところから来られた方が礼拝に参列されることもあります。日本に在住している方もお越しになります。けれども、教会に訪れるのは外国の方々ばかりではありません。乳児、障がいを抱えている方々――その中には視覚や聴覚しょうがいを負っている方々、話すことが難しい方もいます。手話や点字などもそうです。それぞれが自分の「ことば」を持ち、その「ことば」の中に生きておられます。
今、私たちの世界では「自国第一主義」が横行しています。「日本人だけが良ければそれでよい」という考えは、実際には成り立ちませんし、主イエスが教えてくださったことにも反します。この国の中にも在日朝鮮・韓国の方々、アイヌや沖縄の方々など、それぞれに固有の言語と文化を有しています。また、地方に行かれて地元のことばがわからず戸惑う経験をされた方もおられるでしょう。私たちの社会には、理解を超えた「ことば」や文化が息づいているのです。
数年前のインターナショナルサンデーの礼拝の中で在日朝鮮・韓国の方々に対するヘイトスピーチが激しく行われていることを私たちは学びました。今もアジア諸国の人々を排除しようとするようなデモが繰り返されています。その報道が少なくなると私たちはさもそれが終わってしまったと誤解しがちです。そのような排他的な動きに、私たちはどう向き合えばよいのでしょうか。教会として、そしてクリスチャンとして、何ができるのでしょうか。
私たちには、こういう経験がないでしょうか。親しみのない「ことば」や文化に触れたとき、不安や違和感、場合によっては拒絶感を覚えることがあります。でも、「ことば」とは単なる情報伝達の手段ではありません。それはその人が歩んできた人生や価値観、背負ってきたものを映し出すものです。知らない「ことば」と出会うということは、異質な存在に触れるということ。そして、その戸惑いは意味がわからないこと以上に、「異質なものに出会うことへの不安」なのではないでしょうか。
ペンテコステに生まれた教会とは、多様性に満ちている場でした。誰でも神の前に立てる場であり、それぞれが自分の「ことば」で祈り、賛美し、語ることが許される場所でした。これが教会の原点でした。
私たちのそばにも、目が見えない方、耳が聞こえない方、話すことが難しい方がいます。赤ちゃんの泣き声もまた、「ことば」です。それぞれが、その人固有の「ことば」の中に生きています。
先ほども申しましたが、私たちは知らない「ことば」と出会うとき、不安になります。意味がわからないと、心が閉ざされてしまう。けれども、その「ことば」の背後には、その人の人生、その人の願い、その人の痛みがある。
「ことば」とは、単なる道具ではありません。その人そのものなのです。「ことば」からからその人を知っていくのです。だからこそ、私たちが他者の「ことば」に耳を傾けるとき、そこに神の御業が始まるのです。
ペンテコステの日、聖霊は弟子たちを突き動かしました。閉じこもっていた彼らを外へ押し出し、出会ったことのない他者に向かってそれぞれの「ことば」で福音を語らせたのです。
それは、誰かを説得するためではなく、改宗させるのでもない。神と人とが、人と人とが、主イエスとあなたが繋がり直すためです。違いを無くすためではなく、「違いのまま、共に在る」ためです。
聖霊の働きは、今も私たちのただ中にあります。聖霊というと私たちはすぐにわからなくなってしまう。それは難しい言葉や神学用語を使う必要のないものです。自分のことばで、自分の人生から、あるいは自分の視点から、自分の持ち味から、神の恵みを語るということです。たとえ不器用でも、たどたどしくても、そこに「風」が吹きます。その風は聖霊がやってくるしるしです。
神の愛は、あらゆる言葉に宿ります。母語であっても、片言でも、手話でも、そして沈黙の中にも……です。神はそのすべてを「ことば」として受け取られます。
先日、帰天されたカトリック教会のフランシスコ教皇は2017年、アメリカのトランプ大統領に対してキリスト教徒というのは「壁ではなく、橋をかける」存在として悪に対して悪ではなく、善で切り開いていくべきだと語られました。これは聖霊の働きです。人と人との間に作られた壁を打ち壊し、橋をかけられるお方です。
今日、ペンテコステの風が吹きます。
私たちにも、あの弟子たちのように、新しい出会いと「ことば」を語る扉が開かれますように。私たちが他者の「ことば」に耳を傾け、自分の「ことば」で応えていく、その交わりのただ中に、神の霊が生きて働かれますようにと祈ります。