「イエスの指し示す道」ヨハネ14:1-12 中村吉基

サムエル記下1:17-27;ヨハネによる福音書14:1-12

以前のこと、台北を旅した時にこんなことがありました。信号のない大きな交差点の下に、立派な地下道が通っていました。交差点の地下が円形の広場のようになっていました。そこを歩いていたとき、突然停電になりました。外国でのことでしたし、いったい何が起きたのかと驚き、私は慌てました。地下道でしたから視界がゼロになったのです。今まで経験したことのないような不安を覚えました。大勢の人の声は聞こえてきます。しかし、私には理解できない言葉で何を言っているのか、判らないのです。何も見えない真っ暗闇でした。前がどこで、後ろがどこで、左も、右も判らない。二人の友人が一緒に歩いていましたが、彼らがどこに行ってしまったか判らない。今、ここで火事が起こるかもしれない。そういった不安の中で私はいわゆる「パニック状態」になりました。そこに居合わせた一人の人が私の手を引いてくれました。その人は持っていたライターで火を灯して、出口のほうまで連れて行ってくれました。階段をのぼる所で友人は待っていてくれました。そしてようやく地上にあがりホッとした気持ちになりました。時間にするとそんなに長くないことだったかもしれませんが、たいへんな恐怖に陥れられた出来事でした。まったく何も見えなくなる、どこに行っていいのか判らなくなる。ゆったりと歩いていたところに急に崖から突き落とされるような経験をしました。

今日の箇所の冒頭で「心を騒がせるな」と主イエスは言っておられます。「騒ぐ」と言う言葉は、嵐で海や湖の水が激しく波立ち、もうどこへ身を置いてよいのか判らなくなってしまう混乱した状態を表す言葉です。このヨハネ福音書の場面は、主イエスが最後の晩餐の席上でお話になった「告別説教」と言われる場面です。ここで弟子たちは主イエスから突然の別れを告げられて動揺してしまっているところに、主は「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と言われたのでした。

その出来事は弟子たちが予想もしていなかったことでした。主イエスの弟子たちというのは、主イエスの人柄に惹かれて、その教えは今まで聞いたこともないような「自分を生かしてくれる」教えだと信じ、家族を家において、財産を放棄して主イエスに従った人たちでした。そんな弟子たちに主イエスはこの前の13章36節で「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできない」と言われました。その言葉をどう受け取ってよいか判らずに弟子たちが混乱に陥るのは当然のことでした。

例えば弟子たちにとって梯子を外されたような…もし、ここで主イエスとの別れがくれば、これまで主イエスに従ってきたことは何だったのか。またこれからの将来にも不安を寄せたでしょう。しかし、そんなときにも主イエスは本物の信仰を持ちなさい。パニックに陥ってはないと…「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と言われたのです。

さらに主イエスは6節「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」とご自分を神のもとへ行く「道」であると言われました。これはいったい何を言われようとしたのでしょうか。

私たちが夜の海で船を操縦していたとします。計画通りに航路にしたがって進めば問題はありませんが、私たちが好き勝手に、東に行ったり、西に行ったりすれば船は港にたどりつくどころか、もとの航路さえ判らなくなってしまうかもしれません。そんなときに真っ暗闇の海上で、大きな光を放ち、船を導いてくれる役割をしてくれるのは灯台です。私たちの人生でこの灯台の役目を負ってくださるのがイエス・キリストです。主イエスが真っ暗闇の中でも、私たち一人ひとりを神のところに導いてくださるのです。

私たちはともすれば、横道に逸れることが好きです。寄り道をしてしまうかもしれません。「好き」だとは言わなくても自分の人生の操縦を誤って違う方向に、ときにはそれが悪いことをする方向へ行ってしまう事もあります。皆さんが誰かにひどいことを言われたり、されたりするかもしれません。人間というのは自分が過ちを犯したことはさっさと忘れてしまうくせに、人から同じようなことをされるといつまでも恨んでいたりします。あるとき、主イエスは言われました。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」(マタイ18:22)。

ここで主イエスが私たちに指し示してくださる道は、「心から人を赦しなさい」というものです。また、誰かが皆さんに手を差し伸べてほしい、力を貸してほしいと思うかもしれません。私たちはそれを見てみぬふりをすることもできます。しかし主イエスの指し示す道は「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」(マタイ7:12)と言うのです。

この場合の道は、もじもじしないで、またたじろぐこともなく進んで人の力になろう、というものです。このように主イエスの言葉は私たちが神のおられる天に到達する「道」なのです。ですから、日々、福音の言葉に私たちは親しむということは実はとても賢く生きる秘訣なのです。主イエスはこのように言われました。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」との旧約にある言葉をよく理解されて生きました。「与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる」(ルカ6:38)。「剣を取る者は皆、剣で滅びる」(マタイ26:52)、「皆に仕える者になりなさい」(マタイ20:26)。どれも本当に素晴らしい言葉です。

しかし、自分自身にとって、これを行うのが難しいと感じてしまうかもしれません。ただ、この主イエスの言葉を言葉として読むだけで、自分の生活に取り入れることがなければ聖書は「虚しい道徳の教科書」に終わってしまいます。けれども、道徳の教科書と主イエスの言葉には違いがあるのです。それが12節「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる」。主イエスが指し示してくださる神は、主イエスが教えてくださった道を歩み続ける力を与えてくださるのだ、と12節に記されています。これが主イエスの言葉がただの虚しい「道徳名言集」に終わらない所以です。

使徒言行録5章29節でペトロたちはこのように言いました。「(私たちは)人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」。私たちは毎日インターネットやテレビや新聞や、仕事場の隣の人や、友達や、近所の人や、電話で、メールでいろいろな声にうず高く取り巻かれています。そんな私たちの毎日の中で、主イエスの指し示してくださる神への道を私たちは見上げなければなりません。よそ見ばかりしている私たちに主イエスは今日も「わたしの指し示す神を見なさい。わたしは道であり、真理であり、命なのです。ここを通っていきなさい」と手を広げて私たちを待っていてくださるのです。

私たちは神がいつも私たちのそばにいてくださることに気づいていないかもしれません。主イエスがフィリポに10節「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである」と言われました。つまり主イエスを知っている人は神を知っている。

私はここで、旧約聖書の創世記で神がご自分に似せて人間を創造されたという話を思い起こしました。人間の顔や体形が神に似ているというのではなく、はるかに崇高な、愛する、考える、感じ取るといった私たちのすべてが神に似せられているというのは本当に素晴らしいことだと思うのです。
神は私たちの親です。子である私たちも主イエスの指し示す神を見上げて共に進んで行きたいと思うのです。

このあと、神によって復活させられた主イエスとの出会いを体験した弟子たちは、主イエスが言われたとおり、イエスがなさったわざを、またそれよりもはるかに大きなわざを行うようになりました。

2000年前、最初にできた教会(原始教会)にも現代と同じくさまざまな人々が集っていました。それだけに対立や軋轢が生まれたのです。教会の中にギリシア語を話すユダヤ人のグループ、ヘブライ語を話すユダヤ人のグループなどがありました。その中で、食物の配給をめぐって、ギリシア語グループのやもめが軽んじられていたのです。一人ひとりの誰もがそういう目に遭わないように使徒たちは信仰と聖霊に満ちた7人を選び、問題の解決に当たらせました。その中には後に石打の刑で殉教するステファノもいました。

こうして教会はまず神の共同体であること、そしてすべての人が神に似せて造られた子どもであること、一人ひとりが大切にされて、居場所があり、受け入れられるところこそが教会なのだ! とその7人は示しました。私たちの教会もこの「道」を示す教会とならねばなりません。主イエスが私たちを導いてくださったように、私たちも周りにいる人々をイエスのもとに導いていきましょう。今月は特に年間聖句を覚えてお話ししています。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」私たち一人一人が教会です。「共生共苦」を証ししていきましょう。