「本当にこの人は神の子だった」マタイ27:32-56 中村吉基

哀歌5:15-22;マタイによる福音書27:32-56

日から受難週(Passion Week, Holy Week, Semana Santa)に入ります。イエス・キリストの十字架への道行きの一週間です。今朝はマタイによる福音書から受難の物語の一部を読みました。この受難物語というのは4つの福音書すべてに書かれてあります。それぞれに視点が違い、個性があって記し方は違うのですけれども、福音書を書いた弟子たちというのは、まずこの主イエスの受難と死と復活というところから書き始めたと考えられます。そしてそのあとで主イエスの誕生物語や生涯の記録が加わっていった。まさにこの受難週に起こったことは強烈な印象として弟子たちの心に残っていたと思うのです。そしてこの残忍で、空虚な出来事――しかし、それは主の復活の出来事によって「絶望」から「希望」へ、「無」から「有」へと変えられていったこの出来事を人々に伝えたい、ここに神のみ心があると思ったのではないでしょうか。

それでもやはり弟子たちには先生である主イエスを失って辛かったと思うのです。私たち人間は誰でも例外なく辛いことや苦しいことを経験します。自分は真面目にやっていて、悪いこともしていないのに不幸な目にあうこともありますね。身近な人を亡くしたり、事故にあったり、病気になったりします。そして私たちの周りを見れば、この世の中には多くの人が「苦しみ」を受けています。正しい人が、悪い人によって苦しめられることもあります。

いつも私たちは礼拝の祈りの中でたくさんの人を憶えて祈っています。礼拝だけではありません。水曜日に開かれている祈り会においてもそうです。戦争の犠牲になる人々、犯罪に巻き込まれる人々、病気の人々、差別される人々、今日一日の食事にも事欠き、飢えや寒さでいのちを落とす人々、こんな状況を見て、詩編22編の言葉ですが、「わたしの神、わたしの神、どうしてわたしをお見捨てになるのですか?」と問いたくなりますね。あるいは「神は本当にいるのだろうか?」という思いになるのではないでしょうか。なぜ神がいるならこんなに不条理なことが起こり、苦しみが続くのか、という思いにかられて怒ります。ある人々はそのことを理由に神を信じようとはしません。

耐えられない苦しみにあえぐ人がそういう気持ちになっても仕方がないところがあります。神は本当に苦しみにある人々を見捨てるのでしょうか? 私たちが毎日あえいでいるその姿を神は黙って見て、放っておかれるのでしょうか。本当に神はおられないのでしょうか?

そうではありません。それどころか神の子イエス・キリストが私たち人間の苦しみを、それも十字架という最も極刑にある仕方で無惨に殺され、担ってくださったのです。主イエスはユダヤ人の祭りの中で最も盛大に祝われる過越しの祭にさしかかった金曜日に十字架の上で亡くなられました。それはエルサレムの郊外のゴルゴタの丘の上であったと聖書は記しています。

それではなぜ、主イエスは十字架で殺されなければならなかったのでしょう。これについて今日の箇所の前に記されているエピソードについてお話しして、3つの要因――そこに描かれる人間たちの姿を見たいと思うのです。

まず、これまでユダヤ人の指導的にある立場の祭司や長老、サドカイ派、ファリサイ派の人々のイエスに対する「敵意」がありました(マタイ26:3,4)。彼らは主イエスの人気を妬み、憎み続けていました。主イエスの周りには絶えず大勢の人々が集まり、彼らは自分たちの地位が危ないと感じて、イエスを抹殺しようとしたのです。主イエスの教えは彼らの生き方の根底から悔い改めを求めるものでした。人は誰でも自分を正当化する心の動きが常にあるといえます。そして自分よりも人気があるとか、成功しているとか、優秀な人に対して嫉妬する気持ちがあります。彼らは考えに考えてイエスを宗教裁判にかけて偽の証人を立てて、主イエスを有罪にして、死刑執行をピラトに迫ったのでした。

それだけではありません。次に挙げられるのは、人々の心変わりでした。今日、棕梠の主日に私たちは棕梠の葉を掲げて礼拝をしていますが、日曜日に主イエスが小さなロバに乗ってエルサレムに来られたときに人々は木々の葉を地面に敷き、枝を手に持って「ホサナ」を叫んで主イエスの到来を歓迎したのにも関わらず(同21:1~)、それから間も無く、祭司や長老たちにそそのかされて「(イエスを」十字架につけろ」(同27:22~)と叫んでいました。人間は一人で出来なくても、集団で寄って、たかって悪を平気で行うことがあります。これは立派な暴力です。その悪が人々に向けられるということは恐ろしい罪です。人間の弱さがそこにあらわれているといえます。

3番目に挙げられるのは、ピラトの態度です(同27:11~)。ピラトはイエスに罪は無く、イエスを妬む人々によって訴えられていることを知っていました。しかし、群衆による騒動が起こって、彼は一人の罪なき人が助けられることよりも、自分の地位や立場を心配しました。そして主イエスを十字架に処することを決めたのです。これは弱い者を切り捨て、強い者が生き延びて行こうとする。ピラトは自分の責任を捨てて、自分を守る方向へと走りました。以上のことが、主イエスが十字架での死に至った理由です。

今日の箇所以前に記されている人間たちの姿を見ましたが、このユダヤ人の指導者、群衆、ピラトに共通するものは自己中心主義です。「自分が、自分が……」というそれぞれの気持ちが主イエスを十字架にはりつけにしたのです。彼らと同じ自己中心の思いは今を生きる私たちの中にも生きています。主イエスは私たちの罪のために十字架に架かられたのはこの私の中にも生きている自己中心的な思いの罪のゆえでした。主イエスは重い十字架を背負わされてゴルゴタの丘ではりつけにされるまで、すこしも逆らわず、ただ黙って歩いていかれました。神の子としての力はそこで何一つお使いにはなりませんでした。

さて、最初にお話しした、私たちはなぜ苦しむのかということを考えたときに、苦しみは人間の罪によって生み出されたのです。その私たち人間の罪のゆえに十字架にお架かりになりました。それが神の栄光を表すためでした。主イエスが亡くなられたとき「本当にこの人は神の子だった」と百人隊長や見張りをしていた人たちは言いました(27章54節)。「神であり、人となられた」、救い主キリストはそういう方です。

皆さんはヴァティカンのシスティーナ礼拝堂にあるミケランジェロの「アダムの創造」という絵をご存知でしょうか。私は神であり人である救い主キリストのことを思い描くときこの絵を思い浮かべました。神から差し伸べられた手にすがろうと必死に手を伸ばすアダムの姿が描かれています。神の手にアダムが触れた瞬間に、神から生命がアダムに与えられようとしている作品です。神の指とアダムの指が触れ合っているこの絵を見てスティーヴン・スピルバーグ監督はかつて『E.T.』(1982)という映画を制作した際に、E.T.と少年が指を触れ合うシーンが出来たとも言われていますが、主イエスと言う神であり人であるお方を通して、私たちは神につながり続けることが出来るのです。

私たちが本当に苦しく辛い思いをしている時に神は見捨てることのないお方です。神は私たち人間の能力で想像しても、それ以上に大いなる方ですから、私たちの想像には限界があるでしょう。でも皆さんもご存知のように、この世界でどれだけの人が辛い気持ちで今私たちが礼拝しているこのときも涙を流して「助けてほしい」と叫んでいるのか。その一人一人に家族よりも、愛する人よりも熱い気持ちで救おうと思い、イエスの十字架はそれを率先して、惨めで、痛い思いをされた。

後に主イエスの十字架の出来事を知って、人生を180度転換した人がいました。パウロです。パウロはコリントの信徒への手紙第1の2章2節(新共同訳P.301)でこう言っています。

「(わたしは)十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです」

パウロはこの他にも「十字架につけられたキリスト」(1コリ1:23,ガラテヤ3:1)という言葉を使っていますが、これは厳密に訳すと、「十字架につけられたままのキリスト」、それは「今もなおイエスは十字架上で苦しみ続けている」と訳すことができます。パウロが伝えるところによれば今も十字架の上でイエスは私たちと共に皆さんの苦しみに寄り添い、この世の不義、不条理に苦しんでくださっているのです。そして十字架につけられたままの姿でキリストはお甦りになったのです。

神が私たちと一緒に、いやそれ以上に苦しんでくださることが。私たちにとっての「救い」となります。それは今、目の前にあるのです。それが十字架の出来事でした。私たちに手を差し伸べておられる神に、皆さんのほうからが神の手を握りしめることを今、神は待っておられるのです。