イザヤ書30:8-17;マタイによる福音書14:22-36
週日の夜、オリーブ会でキリスト教や聖書の手ほどきをしています。本当に時を忘れるほどの楽しい学びをしています。しかし、今週の週報をごらんになると、木曜日のオリーブ会のところにいささか物騒なテーマが掲げられています。
「神なんて本当にいるのか?」
聖書の記述も、教会の信仰も神は「存在されるもの」として告げられています。しかしそれよりももっと前の段階として「神なんて本当にいるのか?」というテーマで学びをするのは、現代人に向けて挑戦的なことと言えます。
「信仰というものは、99パーセントの疑いと、1パーセントの希望だ」
と言ったのは20世紀フランスのカトリック作家ジョルジュ・ベルナノス(1888−1948)です。長く教会生活を送ってきた人、篤い信仰の持ち主であったとしても、私たちにとって「恐れ」と「疑い」とは常に背中合わせにあるものだと言えます。
さて、今日の聖書の箇所は正にその「恐れと疑い」に阻まれる私たちの信仰を考えさせるエピソードです。
主イエスが5000人を超える人たちに説教をされ、そして供に食事をされた出来事に続く物語として描かれていきます。主イエスのおかげで満腹になった人々は解散して帰路に着きましたが、一方イエスの弟子たちは無理矢理に舟に乗せられます。それまで5000人を超える人たちの世話をしていた弟子たちからすれば仕事の疲れを癒したい思いもあったでしょう。しかし主イエスは弟子たちに大切な仕事が残っているかのようにして弟子たちを舟に乗り込ませたのです。
しかし、当の主イエスは別行動をとられました。祈るためにたったお一人で山に登られました。夕方までイエスはそこに留まっておられました。弟子たちが乗せられた舟は「何スタディオン」も岸から離れておりました。1スタディオンは約185メートルですが、もう陸地から数キロ離れていたと考えられます。ガリラヤ湖はそんなに大きな湖ではありません(長さ21キロ、幅12キロ)から半分くらいは進んでいたかもしれません。「逆風のために波に悩まされていた」とあります。弟子たちの中には漁師をしていた人もおりました。夜、視界が遮られると不安が増すばかりです。私たちの肉体の目が、また心の目が見えなくなると突然不安になります。「おろおろ」します。「ハラハラ」するのです。皆さんもご経験がおありだと思います。乗り物や自分が進む道のことだけではありません。「先が見えない」ということは私たちが「恐れ」を抱く第一歩です。
古来からへブライ民族はこのような状況を救えるのは神さまだけであると信じていました。あの出エジプトの出来事の中で葦の海を二つに分けてそこから救い出してくださった神がおられました(出エジプト記14章)。またヨナ書にはヨナの乗り込んだ船が大嵐に遭いましたが、神から逃れてきたヨナを船から投げ出すと「荒れ狂っていた海は静まった」(ヨナ書1章)とあります。
そこに主イエスが湖の上をお歩きになってきたというのです。もう夜が明ける頃でした。弟子たちは船の中で不安な一夜を過ごしていました。それは自分たちの命が尽きてしまうのではないかという恐れでした。弟子たちはそんな主イエスを見て、「幽霊だ」と怯える者もいたのも当然です。当時そこには灯りの一つもありません。ましてや夜明けの時間です。湖の上に立っている人がいたならば、現代人の私たちもまたそれは「幽霊だ」と思っても仕方のないことでした。しかしそれは主イエスご自身でした。そして主イエスはこう仰せになられました。27節です。
「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」。
「わたしだ」という言葉はギリシャ語で「エゴー エイミ」といいまして主イエスのお言葉の中によく出てくる表現です。ヨハネ福音書に「わたしは道であり、真理であり、命である」(14:6)。また「わたしはまことのぶどうの木(である)」(15:1)。そしてかつて神はモーセに「わたしはある、わたしはあるという者だ」(出3:14)とご自身を開示されました。
ここで主イエスはただ単にご自分が今弟子たちのところに到着したことを告げたのではありません。「わたしだ」神の子がここに来たのだと宣言されました。マルコ福音書の並行箇所はここで弟子たちの「そばを通り過ぎようとされた」と記しましたが、これはモーセの横を通り過ぎた神と同様に、人々の先を進んで人々を導く神の栄光を示している」(宮平望)という出来事でした。
ここで弟子の一人ペトロは主に話しかけます。
「主よ、もしあなたでしたら」とおかしな日本語に聞こえるかもしれません。「自分たちの主であるお方であるならば」と理解されるとよいと思います。もしかしたらペトロは主イエスが神の子であるという再確認をしたかもしれません。でもそれは「もしかしたら」ではなくて現実のことでした。33節のところで弟子たちは「本当にあなたは神の子です」と信仰告白しているからです。ペトロ自身もまた、この後の16章16節に「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白しています。
話を戻しますと、湖の上に立っておられた主イエスがペトロをご自身の元へと招きます。しかしペトロは強風が吹くとたちまち怖くなってしまい、沈みかけたところで「主よ、助けてください」と叫びます。私たちにも似たものを感じることがあります。神さまが「恐れることはない」と言われても、恐れてしまう自分がいます。100パーセント全て主に委ねられない、どこかで「疑っている」私たちがいます。この時のペトロの恐れと疑いはそのまま私たちのものだということができるのではないでしょうか。強風もまた神が造られたものです。また聖書では風を聖霊の働きと理解します。それならば神から出たものさえ恐れてしまう私たちです。そこには信仰はありません。しかしこの時ペトロはこう言いました。
「主よ、助けてください」。
ここに彼の信仰が現れています。
主はいつでも私たちを助けてくださいます。
「すぐに手を伸ばされた」と31節にはあります。私たちが溺れてしまわないようにすぐさま手を差し伸べられる主の愛です。
「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と主は仰せになりました。
この時のペトロは心では主イエスを神の子と信じていたでしょう。しかし強風を見たら怖くなってしまった。人が水の上を歩くことなどできるわけがない、と疑いが出てきます。しかしそのようなペトロを主はお見捨てにはならなかったのです。
不思議なことにこの二人が舟に乗り込むと強風は静まりました。船の中にいた他の弟子たちはこの出来事を見て、驚嘆していました。これは神のみ業であるに違いないと確信した瞬間でした。
この箇所ですが、先日水曜日の祈り会でマルコ福音書6章に収録されているこのエピソードの並行記事――マタイはこのマルコの記述に独自の視点を落とし込んで編集しているのですが――に学んだところですが、昨日調べてみましたら、私自身この箇所も、マルコやヨハネ福音書に記されている並行記事も礼拝で説教するのは初めての箇所だということが分かりました。物語は私が子どもの頃から親しんでいるエピソードにも関わらず、不思議な気持ちが持ちながら準備してきました。ある本で知ったのですが、この場面を描いた名画がほとんどないのだそうです。もしかしたら私たちは最初からこの物語をおとぎ話のように読んできたかもしれません。その本にはこう書いてありました。ある画家はペトロが恥をかいているような、また舟の中で寄り添うようにして怯えている弟子たちなど、この場面を描くことを避けてきたかもしれないと言うのです。強い信仰を表す題材ではないと考えたかもしれません。しかし私は今日の箇所に感謝しています。それは誰もが持つ「恐れと疑問」がこの物語の根底に流れているからです。それは最初にお話しした「神なんて本当にいるのか?」という少々乱暴なテーマかもしれませんが、現代人に対して挑戦的な一つの問いに応えているものに通じるからでもあります。
さて、この後、主イエスと弟子たちはガリラヤ湖の北西岸にあるゲネサレトという地に辿り着きました。ゲネサレトの地元の人々はイエスが人々の病を癒して町々や村々を巡っておられることを知っていました。彼らは主イエスがゲネサレトに来たことを喧伝して回って、病人たちをイエスのところに連れてきました。ゲネサレトは風光明媚なところで豊かな土地のところだったようです。オリーブやブドウ、イチジクなどが名産品でしたから食料には困っていなかったようですが、病人がたくさんイエスのところに連れてこられました。病人たちはイエスの「服のすそ」にでも触れられればと、藁にもすがる思いが滲み出ているようです。この「服のすそ」というのは当時の服の四隅につけられた「房」(カーテンを留めるためのタッセル=房のようなもの)がありまして、ヘブライ民族が主の律法を守って、聖なる民とされるように房をつける習慣がありました。その房に触れる時は、その人に「懇願」する時だったようです。ゲネサレトの病人たちはイエスに懇願し続けました。その裾に触れたものは「皆いやされた」と今日の箇所は伝えています。これはイエスの服に癒しの力があるのではなく、イエスが人々の熱心な信仰、祈りに圧倒され、感動されて癒しを行ったものと考えられます。
今日の箇所が私たちに教えることは、決して最初期のキリスト者たちが水の上を歩くような奇跡をおこなっていたわけではありませんし、そのようなことが当時奨励されていたわけでもありません。この後、活躍するパウロは船が難破した時に水の上を歩こうとはしませんでした。私たちもこの箇所のペトロと同じように強風が吹いて嵐になっているそのような場で人が水の上を歩くことなどできるわけが無いと考えるのが当たり前です。しかし主イエスは皆さんが「不可能」だと思っていることをお求めになることがしばしばあります。例えば今、国会で予算案の審議をしていますが、日本の武器輸出はどんどん増大していき、防衛予算も膨らむばかりで嘆かわしいことです。N.T.ライトというイギリスの説教者はこう言っています。「われわれは戦争をするための高性能の機械ならばいくつも発明しましたが、平和を作り出すものについては、まだ発見できていません。われわれは月面に人を立たせることはできますが、食べ物を空腹な人々のお腹の中に入れることはできません。われわれは海底で鯨が歌う歌には耳を傾けることはできますが、人間の魂が一本向こうの道で叫んでいるのを聞くことはできません」(N .T.ライト『新約聖書講解1』大宮謙訳)。
それができるようになるには主イエスに全幅の信頼を寄せるということです。もちろん皆さんが今までもそうされてきたかもしれません。しかし、主イエスの眼差しに私たちのそれを合わせ、主イエスの言葉にじっと耳を傾けることをしていたならば、自ずと私たちの信仰に押し出された行動をする事ができるようになるのです。その時主は皆さんにこう言われます。
「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」。