「言い訳を捨てる」申命記18:15-22 中村吉基

申命記18:15-22;マタイによる福音書5:38-48

「言い訳」の上手な人がいます。ずっと以前のことですが、ある方からお詫び状をいただきました。しかし、そこには「お詫び」の言葉はひと言も書いていないように、私には思えたのです。最初から最後まで、全て言い訳で塗り固めたような文面で、到底、心の底から詫びているとは思えない内容でした。もちろん、そういう私も言い訳や言い逃れをこれまでしたことがないわけではありません。言い訳というのは使う側には便利であり、反対に、使われる側にとっては怖いものです。たとえば相手から失礼なことをされたときに「あなたのことを思ってついやってしまった」と、上手な言い訳をされてしまうと、本来であれば失礼なことをされた相手なのに、むしろ自分に親身になってくれているかのような、錯覚した気持ちにさせられてしまうのです。だから私たちは、時として、自分が何か相手に対して気まずいことをしてしまった時に、その場しのぎの言い訳をして、それで済ませてしまおうとすることがあるのではないでしょうか。

ある人が、「言い訳癖」のある人というのは、その人が育ってきた環境、家庭での教育など「育成史」が原因ではないかと言っていましたが、幼いころから取るに足りない言い訳をしていつも問題から逃げてばかりいると、問題を解決する能力が大人になっても身に付かず、とにかくその場をしのげればどんな嘘偽りや言い訳をしてもいい、という、嘘偽りや言い訳の自転車操業のような人格が形成されていくことでしょう。そして嘘偽りや言い訳が尽きた最後には、今度は開き直り、このような問題になったのはそもそもあなたが原因だ、と自分の責任を周囲に転嫁していき、「とにかく自分は悪くない」と主張する人間になっていきます。そしてそのような人は、あらゆるコミュニティーで同じようなことを繰り返していくことになってしまうのです。言い訳が得意な人は、自分の言葉を相手がじっと黙って耳を傾けているのを見ると、しめしめ、うまくいったと思うのでしょうが、聞いているほうの本心はそうではありません。あまりにも安易なその場しのぎの言い訳の言葉を聞き、悲しく、むなしく、残念な気持ちになり、言葉を発する気持ちにならないだけなのです。

さて、今日の箇所に登場するモーセですが、決してモーセが言い訳の達人であったわけではありません。けれども言い訳をすることがどれだけ相手を、ひいては神を悲しませているのか、今日神から私たちに与えられた申命記のみ言葉に聴いてみたいのです。

モーセはイスラエルがエジプトに奴隷として捕らえられていたときにいわゆる「出エジプト」を果たした指導者ですが、同時に神とその民の仲介的な役割をなした人物です。伝承によればエジプトでヘブライ人奴隷の子として生まれましたが、迫害を恐れた母親に棄てられ、それをファラオの王女に拾われて、エジプトの宮廷で育ちました。成人してから殺人を犯し、アラビア北西部のミディアン人の地方に逃れて、そこでミディアン人の祭司の娘と結婚します。その地方にある神の山で神の啓示を受けて、イスラエルの指導者となるべく召し出しを受けます。ふたたびエジプトでは兄であるアロンとともにファラオと対決して、さまざまな奇跡を引き起こしてファラオを屈服させて、イスラエルの民を奴隷から解放して、エジプトから導き出しました。その後民をシナイ山へ導いて、神とイスラエルの間に契約を結んで、皆さん良く知っている十戒を始めとする律法を授かるのです。そしてそのシナイには1年ほど滞在しますが、その後モーセは民を導いて、カナン(パレスティナ)の地に向かいます。しかし、民は荒れ野の旅の厳しさや、カナンの地に入るのに困難を伴ったために、不平や反抗を神に繰り返して、ついに神は現世代が死に絶えるまで40年間放浪の罰を下されるのでした。しかしモーセやアロンも神に完全に従ったわけではありませんでした。そのためにカナンの地に立ち入ることは許されませんでした。ようやく彼は40年かけて世代交代したイスラエルの民をカナンの地が見えるヨルダン川の反対側の岸にあるモアブの荒野まで導いてきますが、ここで長いお別れの説教(この申命記がその説教だと言われています)をして、ヨシュアを後継者に指名して、カナンまであと少しのところまで来たのですが、彼自身はカナンの地に入る前にピスガの山の頂からカナンをのぞんで生涯を終えました。そしてヨシュアの手によってイスラエルの民はカナンの地(エリコの奥)に入ります。

今日の箇所で、15節に「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない」とあります。神はモーセのような預言者・指導者を民の救いのために立てられるというのです。そして、18節ですが、「その(預言者の)口にわたし(神)の言葉を授ける。彼はわたしが命じることをすべて彼らに告げるであろう」と神のみ言葉を取り次ぎます。モーセは神がイスラエルの民を救うために召されて、立てられた人でした。神のみ言葉の伝達者、代弁者でありました。しかしただ神の言われたことを伝えるだけではなくて、神のお命じになったことを忠実に守って生きることが求められました。預言者がAI(人工知能)ロボットのように神のみ言葉だけを誤りなく、忠実に伝達さえできれば良いというのではありません。神の教えを、導きをAIロボットではなくて生身の人間としてそれをその通りに生きて、喜びをもって証しをする生活を求められました。

そしてみ言葉を語る者だけではなく、19節のところを読みますと「彼がわたしの名によってわたしの言葉を語るのに、聞き従わない者があるならば、わたしはその責任を追及する」とあるのです。つまり預言者が神のみ言葉を語って、それを聞いているのにもかかわらず、従わない者があるならば、神はその責任を追及すると言われるのです。これは厳しい言葉に聞こえます。たとえば今この礼拝で、牧師が神のみ言葉を取り次いでいます。語る牧師が神のみ言葉を守るのはもちろんのこと、聴いている一人ひとりもきちんとそれに従わなければ、神自らがその責任を追及する、と言われているのです。今これを聞いて「たまったもんじゃない」と思った人はいないでしょうか。

しかし考えてみればクリスチャンとしての人生の中心は、神のみ言葉に従って生きることです。けれども私たちには難しく、すぐできないことも多々あります。そして神、主イエスに従って歩むことに躊躇したり、苦悩します。ある者は教会を離れてしまい、信仰を棄てる者さえいます。人は安易にこう思うことがあります。宗教を持てば、信仰に入ればすべてのことは成功し、悩みもなく、豊かになり、願いごとも叶うというようなことを抱くのです。しかし現実はそうではありません。私たちがクリスチャンとして歩むことは主イエスが歩かれた荊の道に続いていくことなのでしょう。けれども、私たちはひとりではありません。神が、主イエスが、聖霊が私たちと一緒に歩んでくださるのが私たちの信仰の道です。私たちの躊躇も苦悩も憂いもすべて神の力で拭い去ってくださるのです。

今日の箇所を読んで一つの聖書の言葉を連想しました。

ヘブライ人への手紙4章12節です。「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです」。

宗教改革者は言いました。

「説教が正しく語られ、正しく聴かれるところに教会がある」。ホンモノの教会はこうだと言うのです。礼拝において皆さんはみ言葉を聴くために集められてきます。牧師は語るために説教卓に立ちます。「〈語るつとめ〉に召されている者と〈聞くつとめ〉に召されている者がこの限られた時間の中でキリリ、(神の)みことばの前にともに立つ」(辻宣道)のです。この気迫というか、迫力、緊張感をもって私たちは神を礼拝するのです。

そこには「言い訳」や「言い逃れ」はできません。今日の箇所の最後の21節のところに「あなたは心の中で、『どうして我々は、その言葉が主の語られた言葉ではないということを知りうるだろうか』と言うであろう。その預言者が主の御名によって語っても、そのことが起こらず、実現しなければ、それは主が語られたものではない。預言者が勝手に語ったのであるから、恐れることはない」とあります。

私たちにはこの気持ちがわかります。何かを言ってでも神のお命じになったことを遠ざけたいというようなもどかしさがあります。さきほど神の道を私たちが歩むことは苦悩でもあると言いました。しかし、そのような歩みのなかにも私たちが知らなかったことを知り、大きな恵みをいただき、新たな眼が開かれていくことは確かです。そして私たちの最終ゴールにあるのは神の「救い」です。今クリスマスに一歩一歩近づいています。神が私たちに贈ってくださった救い主イエスを見上げて歩みたいと願うものです。

最初の話に戻りますけれども、私たちはたとえ立派な言い訳をしたとしても、神はすべてをご存知です。私たちは言い訳や言い逃れをしたくなっても、真実を話して正当な非難を受けるべきです。非難を受けることは辛いことですが、言い訳しなくても強く生きていくことのできるステップになります。それは私たちが成長する過程においてなくてはならないものです。その奥に神は必ず「救い」を用意して待っていてくださいます。

お祈りを捧げます。

私たちの神さま、すべてのことを委ね、安心してあなたがつくられた道を歩むことのできる私たちでありますように。今日、この礼拝で語られたあなたからのみ言葉が私たちの心と体の隅々にまで行き渡りますように。主イエス・キリストのみ名によって。アーメン。