「平和をもたらす神の国 」マタイ6:10 徳田 信

詩編103:17-22;マタイによる福音書6:10

御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。

もう10年ほど前になるかと思いますが、TIMEという国際的なニュース雑誌が、ショッキングな記事を載せました。その号の表紙に掲げられたのは「天国なんて存在しない」という言葉。その記事を書いたのは、イギリス国教会で主教を務めたことがある、NTライトという聖書学者です。ライトは一体どんなニュアンスで、「天国なんて存在しない」という書き方をしたのでしょうか。

私たちはよく、地上の生涯を終えて神の御許、天国に行く、という言い方をします。天国に行く、というとき、それは上の方に昇っていくイメージを思い浮かべる方が多いと思います。
しかし今回の聖書箇所はいかがでしょうか。イエス・キリストは「御国が来ますように」と祈るよう私たちに促しておられます。「御国が来る」つまり、天の御国、神の国は、やって来るのです。しかし、そもそも、神の国、御国とは何でしょうか。

「この世の国」は、しばしば、その国民を犠牲にすることで自分を立てようとします。それはあからさまになされる場合もあれば、巧妙に、気づかずになされる場合もあります。第二次大戦中、日本でもドイツでも、時の政府は国民から支持を得ました。しかしその結果は、ご承知のように、周りの国々はもちろん、自国民も大きな苦しみを受けることになりました。

この世の国は様々な力をもって人々を支配しようとします。軍事や経済、さらには宗教でさえ、そのような権力の道具となることがあります。ロシアによるウクライナ侵攻が始まった時、ロシア正教のトップであるキリル総主教は、まるで聖戦つまり聖なる戦いであるかのように語り、国民の心を戦争に向けました。宗教とかキリスト教とか大きな括りではなく、「そこに主イエスの姿が見えるかどうか」こそが判断基準です。どんな大義のためであれ、主イエスが戦車の砲塔を人々に向けることはあり得ません。

主イエスの時代も、まさに宗教的権力が力を振るっていました。彼らは主イエスを目障りに思っていました。主イエスの教えが、まさに自分たちのあり方を根本的に否定するものだったからです。主イエスは、ご自分の運命をご存知でした。神の国、神の愛によって成り立つ世界を、この世は受け入れないことをご存知でした。ご自分が死ぬことによって、それを示すしかないことをご存じだったのです。それゆえ主イエスはエルサレムに向かわれました。そして十字架に掛けられることになります。主イエスが示した神の愛は、まさに自分を犠牲にして人を救う愛でした。この世の国は人々の犠牲の上に自分たちの王国を建てあげます。しかし神の国は、その王である神御自身が犠牲になることで人々を生かす、そのような王国です。

主イエスによる神の国とこの世の国との違いとして、もう一つ、サイズの違いが挙げられます。この世の国は力を求めます。大きいこと、数が多いことを求めます。しかし主イエスによる神の国は、小さいところから始まるのです。

私は大学時代、インドに旅行したときにカルカッタ(現・コルカタ)に立ち寄りました。その時、マザー・テレサが活躍していたマザー・ハウスという彼女を記念する家に足を運ぶことにしました。その場所に行くまでの途中、何人か現地の人たちに道を尋ねました。みなヒンズー教徒だと思うのですが、マザー・テレサのことを良く知っていて、快く案内してくれたことが印象的でした。

「愛とは、大きな愛情をもって小さなことをすることです」。「私たちのしていることは大海の一滴に過ぎません。だけど、私たちがやめたら確実に一滴が減るのです」。「日本人はインドのことよりも、日本のなかで貧しい人々への配慮を優先して考えるべきです。愛はまず手近なところから始まります」。「もし、百人を養えないのであれば、ただ一人を養いなさい」。

これらマザー・テレサの言葉や生き方こそ、神の国の姿をよく表しているように思います。主イエスは神の国、神の支配の到来を、大々的に宣伝したわけではありませんでした。当時の宗教的中心地であったエルサレムでもなければ、政治の中心地であったローマでもありません。大きなところではなく小さなところから、遠くではなく近くから、神の国は始まります。

主イエスがはじめた神の国は、十字架と復活の出来事を通し、弟子たちに引き継がれていきます。はじめは小さな集まりでしたが、神の霊、聖霊の力を頂いて、地中海各地に広がっていきました。そして今や世界中に教会が建てられています。マザー・テレサの小さな働きも、結果としてノーベル賞を得て、多くの人々に多大な影響を与えることになりました。小さく目立たない働き、からし種のような小さな働きであっても、いつしか大きな木のように成長していきます。神の国は、主イエスを通して「すでに」来ているのです。

しかし、いかがでしょうか。新聞やニュースを見れば、また私たちの回りを見れば、神の国、神の御心が十分に行き渡っているとはとても思えません。このことについて、井上義雄先生は、家とその中に住む人々のイメージで語ります。

ここに一軒の家があるとします。この家を取り巻く世界には、すでに朝が訪れています。朝の光がこの家に届き始めていますが、家に住む多くの人々は、そのことに気づいていません。まだ夜が続いていると思い込み、家の中で眠り続けているのです。これは、家の窓が厚いカーテンで覆われているため、光が差し込むのを遮っているからです。しかし、この家に住む少数の人々は、朝がすでに到来していることを知っており、カーテンで閉ざされた暗闇の中でも、目を覚ましているのです。

神の国の到来を宣言する主イエスを受け入れた人は、まさに目覚めた人ということになります。この目覚めた人は、まだ眠っている人よりも優れていたのではありません。ただ恵みによって、厚いカーテンの隙間から、輝かしい朝の光を目にすることができたに過ぎません。しかし目覚めた人には一つの責任が伴います。まだ眠っている人たちに、朝が来ていることを、神の国が来ていることを知らせるという責任です。

どうやって知らせるのでしょうか。主イエスがそうであったように、マザー・テレサがそうであったように、また代々の信仰者たちがそうであったように、小さなところから神の国を生きる、その姿を通して知らせます。だからこそ、私たちは「御国を来たらせたまえ」と祈ります。「御国を来たらせたまえ。まず私自身に、私の周りに、そして全世界に」と祈るのです。

さて説教のはじめで、神の国は上っていくのではなく、降りてくるものだと申しました。ある古代教父は、神の国とは主イエスご自身のことだと表現します。神の国が降りてくるとは、イエス・キリストが降りてくるということです。古来、教会ではこれを「再臨」と呼びならわしてきました。使徒信条でも「かしこより来たりて」と告白しているものです。

十字架に掛かられ復活された主イエスは、弟子たちが見ている目の前で天に昇って行かれました。しかしその主イエスは、再び私たちのところに戻って来られます。何のためでしょうか。神の国をまったく完成させるためです。私たちが生きるこの世界、ある人は朝に気づき、ある人は気づかずに眠り続けています。朝が来ていることに気づいた人は周りの人に朝が来たことを伝えますが、眠り続けている人はなお多いままです。

神の国は私たちを通して広がっていきます。しかし私たちの力だけで神の国がまったく完成することはありません。あのマザー・テレサの働きは大きなものでしたが、それで全世界が神を認めるようにはなりませんでした。また彼女自身も、実は、時に神の存在を疑うほど信仰の葛藤に苦しんでいたそうです。私たちは猶更ではないしょうか。しかし神は、そのように不十分な私たちを用いて、ご自身の国を広げようとされているのです。

大切なことは、神ご自身が最終的な責任を負って下さっている、ということです。朝が来ているのに、まばゆいばかりの光が外にあるのに、眠り続けている人がいることに、神ご自身は耐えられません。いつの日か、朝の光をもたらした神ご自身が、厚く覆っているカーテンをすべて拭い去られるためにやってこられます。その日、闇は過ぎ去り、全世界が神の光を見ることになります。神の国がこの世界にまったく到来するのです。

そこを治める王は、もはやこの世の支配者ではありません。ご自身を犠牲することで私たちをご自身のものとしてくださった、イエス・キリストです。その時生きている人もすでに死んだ人も、この神の国に生きるものとされます。神がすべてのすべてとなられること、それが聖書の物語る救いのゴールです。

はじめに、NTライトによる、「天国なんて存在しない」という発言を紹介しました。それはもちろん、私たちがこの世の生を終えたのち、神さまのもとで安らぐことを否定するものではありません。しかし、天国つまり神の国とは、私たちが死んだ後の希望に留まりません。いま、この時から、私たちの足元から、始まるものなのだ、主イエスの心を心とするところ、そこに神の国は始まっているのだ、というメッセージです。

「御国を来たらせたまえ」。平和を覚える8月を過ごしています。神の国の小さな一歩をそれぞれ踏み出して参りましょう。