「永遠の命を得るために」ヨハネ6:41-59 中村吉基

箴言9:1-11:ヨハネによる福音書6:41-59

「わたしは天から降って来たパンである」と今日の箇所で主イエスは言われています。私たちクリスチャンは主イエスを信じて歩みを起こした者たちです。主イエスが今、皆さんの目の前に立って「わたしは命のパンである」「このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」と言われたならばそれを素直に受け入れる心の準備があるでしょうか。
出エジプト記にはモーセがエジプトで奴隷になっていたヘブライ人たちを導き出した時、食べるものや飲むものがなく、不平を漏らしていました。けれども神様はモーセを通して民が水を飲めるようにして、天からマナという食物を振らせてくださいました。これはこの箇所の49節のところにも記されてありますが、今、主イエスの目の前にいるユダヤ人たちは、主にパンを求めて「つぶやき始め」ました。これは不平を漏らすということです。

私たちは「信じる」という言葉を簡単に使います。信じるということの先にある素晴らしさにまだ気づいていないかもしれませんし、信じることがなぜ難しいのかという理由も突き詰めていないかもしれません。

人びとはこのイエスのことが信じられませんでした。ユダヤ人たちはイエスの言葉に大きくつまずきました。主イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と聞くや否や、とまどい、混乱したのです。だってイエスといえば、あの大工のヨセフの子であり、ナザレのごくごく平凡な村人のはずだ、と……。比較して読んでいただきたいのですが、41節で主イエスは「わたしは天から降ってきたパンである」と言いました。しかしユダヤ人たちは続く42節で「わたしは天から降ってきた」と言っているのですね。少し語順が変わることでニュアンスが違います。これはユダヤ人たちの驚きを示している表現なのです。

主イエスは「つぶやき合うのはやめ」ようというのです(43)。自分たちの経験とか知恵などに従ってひそひそ、ぶつぶつ…不平を言い合うのではなく、天におられる神様に目を向けなさいというのです。

「わたしにつまずかない者は幸いである」と主イエスはよく言われました。主イエスが人々にお話しになったことをめぐって、人々がどう信じてよいのか、また動揺することをよくご存知であったからこそ、「つまずかない者は幸い」だとお話しになったのでしょう。主イエスの言葉には人間の知恵では計り知れないものや常識を超えた言葉がしばしば語られます。私たちもそうです。ずっと前から思い込んでいること、当たり前だと思っていることなどが覆される言葉を聞いた時、私たちは自分の耳を疑います。即座にそれを信じることができないのです。

主イエスは今日私たちにも「わたしにつまずかない者は幸いである」と仰せになります。思い返してみれば主イエスの生涯は、家畜小屋の飼い葉おけの中で生まれてから十字架で殺されるまで、貧しい人間の姿としての歩みでした。これが本当に神の子なのか、と思ってしまう私たちの現実があります。イエス・キリストを見るときに、ある宗教の教祖のような、霊験新たかな神の生まれ変わりだと言ってみたり、豪華絢爛な建物に住むようなことは一切無かった生涯でした。ある時主イエスは荒れ野でサタンの誘惑を受けました。その時にも超能力を使ったり、奇跡を起こすようなことはありませんでした。つまりそういうものを見せつけて人の気を引くようなことはなかったのです。

しかし、主イエスが奇跡を行い、病を癒した場面が聖書に記されています。それはいつでも差別された人たちを仲間に加え、困っている人を助ける時にだけ、そうされたのです。主イエスはいつも、いつでも少数者の側に立たれました。しかもいくつかの場面ではそのような奇跡を主イエスが行ったことを「誰にも話さないように」と口止めをしていることさえあるのです。

「ひとりの孤独な生涯」という主イエスの一生をうたった詩があります。作者は不明です。

彼は、世に知られぬ小さな村のユダヤの人の家に生まれた。
母親は、貧しい田舎の人であった。
彼が育ったところも、世に知られぬ別の小さな村であった。
彼は30才になるまで大工として働いた。
それから、旅から旅の説教者として3年を過ごした。
一冊の本も書かず、自分の事務所も持たず、自分の家も持っていなかった。
彼は、自分の生まれた村から200マイル以上出たことはなく、
偉人と言われる有名人にはつきものの「業績」を残したこともなかった。
彼は、人に見せる紹介状を持たず、自分を見てもらうことがただひとつの頼りであった。
彼は、旅をしてまわり、病人をいやし、足の不自由な人を歩かせ、盲人の目を開き、神の愛を説いた。
ほどなく、この世の権力者たちは彼に敵対しはじめ、世間もそれに同調した。
彼の友人たちは、みな逃げ去った。
彼は裏切られ、敵の手に渡され、裁判にかけられ、ののしられ、唾をかけられ、殴られ、引きずり回された。
彼は十字架に釘づけにされ、二人の犯罪人の間に、その十字架は立てられた。
彼がまさに死につつある時、処刑者たちは彼の地上における唯一の財産、すなわち彼の上着をくじで引いていた。
彼が死ぬと、その死体は十字架から下ろされ、借り物の墓に横たえられた。
ある友人からの、せめてものはなむけであった。

長い19の世紀が過ぎていった。
今日、彼は、人間の歴史の中心であり、前進する人類の先頭に立っている。
「かつて進軍したすべての軍隊と、かつて組織されたすべての海軍、かつて開催されたすべての議会と、かつて権力を振るいながら統治したすべての王様たちの影響力のすべてを合わせて一つにしても、人類の生活に与えた影響、人々のいのちに与えた影響の偉大さにおいて、あの『ひとりの孤独な生涯』には到底及びもつかなかった。」と言っても決して誤りではないだろう。

(関根一夫 訳)

私たちの人間的な目で見れば、主イエスはごくごく普通の人間です。主イエスを人間という側面で見れば、言っていることはある人たちにとってみれば人間の常識に外れていて、異常に見えるのかもしれません。しかし、主イエスの中には神様の働きが生きているのです。

ふたたび43節以下をご覧ください。「つぶやき合うのはやめなさい。わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない」。私たちと主イエスが結ばれるために神様が手を差し伸べてくださるのです。ここで「引き寄せる」(ヘルコー)という言葉は乗り物とか大きな岩とか、重いものを引っ張る時に使われる言葉です。このヨハネ福音書の21章には復活の主が弟子たちに大漁のしるしを示されたことが記録されていますが、そこに「彼らは網を下ろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった」と記されています。その「引き上げる」という言葉がここに使われる「引き寄せる」という言葉と同じなのです。神はまずひとり子イエスをこの地上に送り、そして漁師たちをイエスの弟子として、その漁師たちは「人間を漁る漁師」となり、さまざまな人びとをイエスのもとに引き寄せてくださるのです。

つまり、神様が力一杯に引き寄せてくださらないかぎり、人間は主イエスのもとに来ることはできないのです。この言葉ひとつから考えてみると、神様は私たちが主イエスと出会い、信じるようになるように導かれるのは簡単なことではない、ということです。それは私たちの心が頑なだからです。神様が私たちを主イエスのもとに引き寄せるのはたいへん重労働なのです。私たちが常識の世界に囚われれば囚われるほど、そこから這い上がるのは難しいのです。それだけではなく余計な自信などあれば、なおさら動かないでしょう。もしも私たちの心が石のように硬ければ、神様がいくら主イエスに引き寄せようとしても微動だにしないかもしれないのです。そこにイエス・キリストとの出会いが生まれるわけもないのです。

主イエスはある時こう言われました。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」。小さな子どもの心のように真っ白になって神様、主イエスの言葉に耳を傾ける者に神様は祝福をくださいます。

私たちの心はいつの間にか心を閉ざしがちになってはいないでしょうか? でも私たちは知っています。私たちが相手に心を開く時、心配していたことは消え失せ、その関係はよりスムースになるものです。これは人に対してだけではありません。私たちは主イエスに対して心を開いているでしょうか。神様の愛に心を開いて、神様に引き寄せられて主イエスに近づくことが許されるのです。私たちは主イエスを本当の「いのちのパン」として信じて受け入れ、主イエスのみ言葉を私たちの日ごとの食物として生きるならば、今日の最後の節51節にあるように「その人は永遠に生きる」ことができるのです。