列王記上17:8-16;ローマの信徒への手紙14:10-23
ローマの信徒への手紙14章の前半でパウロは、信仰上食べてはならないとされる食物のことや、大切にする日のことで「人を裁いてはならない」と手紙に書き記しました。「隣人を受け入れなさい」と神が人間を受け入れてくださったのと同じように接しなさいというのです。すぐに相手の良し悪しを判断するのではなく、互いに敬意を持つことを勧めているといえます。
旧約聖書の律法には「食物規定」があります。そこには「汚れた食べ物」のことが記されています。豚とからくだ、猛禽類や甲殻類などは汚れている動物なので、食べてはならないと定められていたのです。ヘブライ民族は、それを神が定められた戒律として、何千年にもわたり守り継いで来たのです。食べ物だけではありません。日取りのこと、特定の日を重んじる人もいればそうでない人もいるという問題も起こってきていました。中にはべジタリアン(菜食主義)の人たちもいたようですが、もしかしたら野菜だけを食べている人たちが、神様が植物を造られた火曜日(第3の日、創世記1:11-13)を重んじていたかもしれませんし、肉をはじめすべてのものを食べる人にとっては神が動物を造られた木曜日(第5の日、創世記1:20-25)を重要視していたかもしれないのです。
この14章は「信仰の弱い人を受け入れなさい」(1節)と言う言葉から始まります。「その考えを批判(直訳では「区別」)してはなりません」当時の教会にもさまざまな人たちが集っていました。かつてはユダヤ教徒としてその伝統のもとに生きてきた人たちは、律法から解放されて、キリスト者になってからも「食物規定」を大切にしていて、菜食主義を貫いているのでした。しかし、何を食べてもよい(14:2)と考えている人たちもいる中で、教会の中で軋轢が生じてくるわけです。価値観の違いとか、見解の相違がありました。3節ではお互いに「軽蔑してはならない」「裁いてはならない」。これを「無視してはならない」と訳している注解者もいます。
「スルーする」と最近そういう言い方をしますけれど、「スルー」してはいけないのです。今日共に読みました14節のところでは、偶像に備えられた肉をキリスト者が食べても良いのかと言う問題も出てきていることもこの軋轢につながっているのでしょう。そこでパウロは言いました。わたしたちは自分のためではない、主のために生きるのだ(14:8)、と。そこから新しい道が開かれていくのです。
13節以下にはこうあります。
従って、もう互いに裁き合わないようにしよう。むしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい。それ自体で汚れたものは何もないと、わたしは主イエスによって知り、そして確信しています。汚れたものだと思うならば、それは、その人にだけ汚れたものです。
「つまずき」となるもの、「妨げ」となるものを兄弟たちの前に置かないように……当時のローマの教会での問題は、今お話ししましたように、おそらくごく少数の人たちが、食物や特定の日を重んじていたのでした。パウロはそれを「信仰の弱い人」(14:1)というのですが、この13節での「兄弟」というのはこの人たちを指すのだと思います。そして私たちの聖書の翻訳では、本来13節の「兄弟の前に置かないように決心しなさい」の前にある「あなたがたは」という言葉が省略されていますが、16節にも「あなたがた」という言葉が出てきます。そのほかの大多数の人々を「あなたがた」……それは「強い人」を指すのでしょう。パウロはこの大多数の人たちに向かって「もう互いに裁き合わないようにしよう」というのです。来る日も来る日も裁き続けるのではない、「妨げ」とは相手に打撃を与えること、「つまづき」とは相手を「罠にかける」「転覆させる」というようなことです。もうそのようなことはやめにしようとパウロは記すのです。ここでの「決心しなさい」という言葉は、「裁きなさい」という言葉と同じ言葉が使われているのですが、パウロの洒落のようにして意図的に使われています。
かつてイエスさまはこう言われました。
「すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができない」(マルコ7:18)。パウロはこのイエスさまの言葉をどこかで知っていたのでしょう。14節には「わたしは主イエスによって知り、そして確信しています」とあります。「汚れたものだと思うならば、それは、その人にだけ汚れたものです」。
汚れているとか、清いものだとか、俗なるものだとか、聖なるものだとか、人間はこうして区別するのが好きです。そして一方を貶めて「汚れた」「悪い」「間違っている」などと言うのです。けれども考えてみてください。すべてのものは神さまがお造りになったものです。神はこの世界を創造された時にすべてを「良し」とされているのです(創世記1章)! かつて働いていた教会で、年に一度、代々木公園で野外礼拝をする時がありました。他の教会の方がそれに出席した際にこう言いました。「ここはM神宮の土地だから悪霊に取り憑かれている」と言うのです。しかし私は即座に「ここもM神宮ができるより遥か以前に神さまが造られた土地ですよ!」と申し上げるとその人は黙ってしまいました。
エフェソの信徒への手紙2:14以下(新共同訳354頁)には
「実に、キリストは私たちの平和であります。二つのものを一つにし、ご自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」
と記されてあります。私たちの神さまはこういうお方です。人と人の「違い」を乗り越え、人と人との間に築かれた「壁」を壊して平和を築き上げる神です。
もしも食べてはいけないもののことや、重んじる日のことでそれが人の足枷になっているならば、そこから解放してくださる神さまがおられます。
15節をごらんください。
あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死んでくださったのです。
私たち一人ひとりの内側に活ける神さまがおられます。それと同じように今目の前にいる人たちの中にも神さまが活きておられます。その神が見えなくなる時に、神の愛に生きる道から外れてしまうのです。神は、キリストは、誰が何を食べるかということにはまったく関心がないのです! それよりも大切なのは私たち一人ひとりの魂を見ておられるのです! 私たちが神の愛から外れた生き方をするときに、私たちの中から自分の立場を主張するようになるのです。パウロは「キリストはその兄弟のために死んでくださったのです」と記しました。
16節以下を読みましょう。
ですから、あなたがたにとって善いことがそしりの種にならないようにしなさい。神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。このようにしてキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々に信頼されます。だから、平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか。
よく他宗教の方などから「クリスチャンは何かを食べたり、嗜んだりすることで禁じられているものがありますか?」と訊かれることがあります。信仰というものは禁欲的な生活をすることが本質ではありません。むしろ完全な自由のもとに生きる道が与えられています。何かを禁じて、それにビクビクして互いに監視したり、それについて裁きあったりすることが信仰生活ではありません。パウロがいうように「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜び」なのです。私たちは神のもとに集められ、神の国の一員とすでにされているわけですが、私たちがそこでいただくのはイエスさまの体と血です。クリスチャンはそれを「いのちの糧」として共に食すのです。イエスさまに代わって弁護者・助け手として来てくださった聖霊が義と平和と喜びをすべての信仰者にもたらしてくださるのです。18節の「このようにして」というのは、聖霊による義と平和と喜びを追い求める人は……神に喜ばれ、人々に信頼されるという意味です。
また19節でパウロは、クリスチャンは神の子どもとして、いさかいや争いではなく、「平和や互いの向上に役立つことを追い求めようではありませんか」と言っています。「互いの向上」という言葉を「互いのために建てること」(青野太潮)とか、「お互いを建て上げること」(宮平望)と翻訳している聖書があります。パウロはこの「建設」または「建設的確立」を意味するこの言葉をとても重視して使っています。では何を建設するのかです。それは目に見えるものを指すのではなく、一人一人それぞれに神から与えられた「賜物」――その賜物を生かしあってクリスチャンはキリストのからだなる教会を形成するのです。
パウロは20節で「食べ物のために神の働きを無にしてはなりません」と記します。「無にする」これは「崩す」ということです。「建設」に対峙する言葉です。神の業それは建設途上の教会を崩すということです。パウロは続く21節においても食べ物のことなどで信仰者の仲間たちをつまずかせてその人の信仰が無くなるようなことが実際に起きるよりは、肉や酒を避けるほうが良いと考えているのです。
パウロはローマ教会にはびこっていたこのような問題に祈りつつも、かなり心を痛めていたと思われます。神の国で大切なのは、食べたり、飲んだりすることではありません。神の愛が実現し、聖霊による義と平和と喜びが満ち満ちている世界……その神の国の一員とされている私たちがこの地上の教会を作り上げるようにと招かれています。
今年の9月に予定されている教会カンファレンスは、教会の未来を構想しながら、お互いに「夢」を語り合おうと今、少しずつ計画をされていますが、私たちは今日のパウロの言葉に聴きながら、神と人とに喜ばれるキリストのからだなる教会を建て上げていくために祈りを合わせてまいりましょう。