申命記24:19-22;ヨハネによる福音書1:5
みなさん、おはようございます。本日はよろしくお願いします。
新宿区四谷にある日本YMCA同盟というところからまいりました横山由利亜です。
YMCAは日本全国、現在300拠点近く、世界には120の国と地域にあります。その日本のローカルと世界、グローバルをつなぐ連結ピンのような役割を持つところで、30年ほど職員をし、主として紛争、災害、貧困等の人道支援を担当してきました。
今日は「インターナショナル・サンデー」に貴重なお時間を頂き、心から感謝申し上げます。私は三鷹教会の会員ですが、キリスト教と出会ったのは東京女子大学です。代々木上原教会と縁の深い村上伸先生に大変にお世話になりました。村上先生を通して、物事の本質や真実に辿り着こうとするならば、短絡さに抗うために知性が必要であること。大切なのは答えではなく、「問いを持つこと」、「問いを生きる」ということだということを学びました。
知性の方はさておき、この「問い」のほうにはまって就職活動にすっかり出遅れた私に、見かねてYMCAを紹介してくださったのはゼミの指導教官でした。なかば拾ってもらうようにYMCAに就職した私は、釜ヶ崎からパレスチナまで足を運ぶ機会を与えられました。社会の片隅に置かれながら、命がけでいきている人や、そのために働くひとたち、抵抗する人たち、牧師や神父もそうですが、と出会いました。年齢に関係なく、正義感や信仰に突き動かされて行動する、自分中心ではない人たちの姿に、とても自分はそうはなれない、と落ち込みました。しかし、その周辺で働くことは神様も許してくださるだろうと、YMCAに入って4年で受洗をし、あっという間に30年が過ぎ、いまにいたっています。
さて、2022年2月24日のロシアによる突然のウクライナ侵攻からまもなく2年と半年が過ぎようとしていますが、戦争によって自宅から取るものも取りあえず国内外に離散した、UNHCRによると国外に650万人、国内に350万人、人口3800万人の国ですからその規模がどれほどのことかお分かりいただけると思いますが、その中でも今日は、日本で暮らすウクライナ避難者、現在約2100名の現状はどうなっているかお話をさせていただきます。最近、メディアでの報道も残念ながら減っていますので、少し記憶を掘り起こす意味でも侵攻当初から最近までダイジェストでまとめたニュース動画をご覧いただければと存じます。
★NHKニュース映像動画ダイジェスト★
私がこの活動をするようになったのは、戦争直後の一本の電話がきっかけです。戦争前から日本に暮らすウクライナ人男性から「自分の高齢の親がキーウの郊外に一人で暮らしている。心配なので日本に呼び寄せたい。けれど母親は戦争はすぐに終わる、この歳で海外などに行きたくないと言っている。YMCAは国際協力団体だから手伝ってもらえないか」という内容でした。たしかに、YMCAは世界120の国と地域にあり、ウクライナ、ポーランドのYMCAでは戦争直後から支援活動は行ってはいました。ただ、何十万人が逃げまどう戦禍の混乱状態においてたった一人を見つけ出し、ウクライナから、ポーランドへ安全に避難させ、日本まで果たして無事に辿り着かせることができるか・・。私には経験や具体的なイメージも、もちろん前例やマニュアルもありませんでした。が、もともと「なんでもやってみよう」「できない理由よりできる理由」を考える性格、何より切迫した電話の声に「やってみましょう」と気づくと返事をしていました。この電話だけを頼りに、70代後半の女性は重い腰を上げ、ロシアから爆撃の標的にならないようライトを消して、森の中を蛇行しながら走る長距離バスを乗り継ぎながら命からがら移動。国境で現地のYMCAのスタッフと落ち合うことができ、VISAや飛行機手配、PCR検査、心のケアなど行い、ウクライナの家を出てから実に約3週間かけて日本の辿り着き、息子さんと再会することが叶いました。
これがNHKで報道されてから、同様の相談が次々と押し寄せ、更にはウクライナの激戦地からウクライナ語やロシア語で私の携帯電話に「子どもとマンションの地下の防空壕にいる。子どもが高熱を出している。ここに電話したら助けてもらえると聞いた」といった連絡が深夜、早朝に入ってくるようになりました。さすがに、このときは自分が「やってみましょう」と始めたことの、責任の重さに押しつぶされそうになり、神様に祈る日が続きました。すべてのSOSには答えることはできませんでしたが、それでもYMCAの仲間や多くの方々の募金によって、166人の方々、生後2カ月から86歳の目の不自由な認知症のお婆ちゃんまで、現地のYMCAと連携し、無事に日本に避難させることができました。
ウクライナは、成人男性は徴兵のため国を出ることができません。なので日本に避難している2100人の75%が女性、母子や高齢ご夫婦が最初の頃は多かったです。しかしそれも、戦争が長引くにつれ、最近でも月に数十名、新規の避難者が来日していますが、徴兵を目前に控えた16-17歳の男性が「誰も殺したくない」と駆け込みで逃げて来たり、親を亡くした子どもが一人「お前だけでも安全なところに」と送り出されて来たり、戦争で障がいを負った方、もともと障がいのある方など、複雑な事情を持った方々が増えています。
私は、自分の役割は爆撃の地から日本まで呼び寄せるお手伝いをし、日本で暮らす家族や知人と感動の再会を果たすまでと考えていました。それは“大バカ”でした。なぜなら、大変な思いをして日本に避難してきても、そこは「安住の地」ではないからです。ウクライナはとても教育熱心な国、IT先進国です。ほとんどの子どもたちは、世界中どこに避難しても本国の小学校から大学まで、オンラインでの授業を継続しています。午前中は日本語の勉強、午後から日本の学校に行き、夕方から夜にかけてオンラインでウクライナの学校の授業を受ける。そのオンラインの授業は爆撃を知らせるサイレンで度々中断し、不安の中で再開を待ちます。なかには何もかも嫌になり引きこもりになり、ドロップアウトしてしまう子、極端に愛国心を高める子もいます。
また、女性の社会進出が非常に進んでおり、避難者の多くが医師、弁護士、会計士、鉄道技師、ITエンジニアなど専門性とキャリアを持っています。しかし日本語の壁、国家資格の規制などでなかなか思うように行きません。そもそも日本語ができないというだけで、子どものような扱いを受けることにショックを受ける人も多くいます。
東京で暮らすほとんどのウクライナ避難民は、都営住宅で暮らし、その数は300戸ほどになりますが、私はアパートのお部屋に1回に約2時間、相手が心を開くまで根気強くお付き合いします。祖国でのつらい体験や避難生活の長期化に伴って心身のバランスを崩す避難民も少なくなく、訪問先で泣かれてしまうことも度々あります。私は生活支援にあたり、最初にカウンセリングをして困りごとを聞き、学校、ハローワーク、そして病院、カウンセリングなどにも同行します。その中で、ある共通点に気づかされたのです。夫や父親、親戚や友人をウクライナに残して来ている。日本は確かに“安全”ではあるけれども、とても“安心”はできない。自分だけが“安全”なところにいることに罪悪感を十字架のようにいつも背負い、長期化する戦争の中で、自分はどう生きていけばいいのか、希望が持ちづらくなっている。
爆撃を受けない安全な地に避難して、日本政府から支援金や住むところを与えられても、それだけでは生きられない。特に10代、学び、スポーツし、交友関係を広げながら将来の夢を膨らませる、そういうかけがえのない時間をすべて奪われています。戦争の悲劇や矛盾、正義感といったことを言葉にできず心に抱えています。
一言で言い表すとしたら、私は、戦争が普通の生活者をどうやって蝕んでいくかということを気づかされたのです。皆さん、「戦争になるとは思わなかった。そしてこんなに長期化するとは・・」と話されます。戦争はわかりやすい形では始まらず、ひとたび始まったら、私たちのような普通の生活者の人生を寸断し、進学の夢や、仕事のやりがい、そういったものをすべてゼロにしてしまう。
戦争がもたらす悲劇、戦争を引き起こす本質に分断があると考えます。ウクライナ人にはロシア語で教育を受け家庭生活を送ってきた人、近い親戚や友人がロシアにいる人たちが大勢います。戦争前から日本で暮らしていたウクライナ人やロシア人は助け合って日本社会で生きてきました。それが戦争によって敵・味方のレッテルを貼り疑心暗鬼や不信感の連鎖を生み出しています。最近では帰れる家があるかどうか、戦争の終わり方や補償についての感情の食い違いも出てきています。
そもそも、この日本は「(異国の地で)人生のやりなおし」を迫られた人たちにとって、生きやすい社会だろうか、と考えるようになりました。ぜひ皆さんにもお伺いしてみたいです。
つらい2年でしたが、それでも「日本の学校、給食、友だち最高」と日本語で小学生が話しかけてくれたり、「近所に住む人からもらった」とみかんや避難人形など嬉しそうに見せてくれる。「YMCAとつながれたからキャリアを生かした仕事がみつかった」「私たちにできることで恩返ししたい」と支援冥利につきる場面もあります。その度に、遠く1万キロ離れた日本で「先の見えないなかで人生のやり直し」を迫られた人たちにとって生きる希望や力になっているのはなんだろうか。それは、国家や政治の大義、軍事の増強ではありません。日常の中での何気ない人の優しさ、共に考え、泣き、笑い歩んでくれる市井の人、普通の人びとの存在であることにも気づかされています。
本日はヨハネによる福音書1章5節を読んで頂きました。
一本の電話への「やってみましょう」からは始まったウクライナ避難者支援、私の「ともし火」は、志を同じくするウクライナやヨーロッパの支援者へと燃え移り、多くの人の命をリレー方式で救いました。その「ともし火」は、日本で避難生活に悩み苦しむ姿、戦争の悲惨さの前では無力で風前の灯のように思えました。活動を続けていくなかで、むしろ、「人間の尊厳の大切さ」や「日本が多様な人と暮らせる社会か、やり直しができる社会か」、照らし出され気づかされたのは支援者である私、日本の私たちのほうでした。
私たち一人一人にできることはわずかであっても、臆することなく、まず「ともし火」を高く掲げることで、私たちを最も必要としている人たちのところに、主の計らいによって導き出されて行く。そして、私たちはその小さく弱くされている人たちから、私たち自身の姿と、そして人として本当に大切なこと、真実を照らし出され、気づかされ、教えられるのではないでしょうか。
お祈りします。
ウクライナの戦争が一日も早く終わりますように。ウクライナ、ロシアで家族が戦争に行き、その安否を祈る人たちに福音が訪れますように。パレスチナ・ガザで、ミャンマーで、アフガンで、人間の尊厳が損なわれることがないように、私たち一人一人を、いま困っている人たち、小さく弱くされている人たちのところに遣わしてください。平和の創造主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。