「キリストはわたしたちの平和」エフェソ2:11-22 中村吉基

ヨナ書4:1-11;エフェソの信徒への手紙2:11-22

※今日の音声は一部不具合があります、原稿で補いながらお聞きになってください。

今日の箇所はエフェソ教会での話ですが、ここでは問題が深刻化していたようです。何が問題だったのかといいますと、最初はユダヤ人のクリスチャンばかりであったところが、キリスト教信仰が次第に広まって行くと、いわゆる外国人ここでは「異邦人」が教会に加わってくるようになりました。しかし、両者はなかなかうまくいきません。同じイエスに従って歩みを起こしている人たちには変わりありませんが、おそらく考え方やこれまでの慣習などが「キリストにおいて一つになる」ということを阻害していたと思われます。冒頭の11節からのところにはこのように記されてあります。

だから、心に留めておきなさい。あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれていました。 また、そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。

救い主イエス・キリストの到来によって、ユダヤ人であるか、外国人であるか割礼を受けているかいないかという区別はなくなりました。イエスが十字架で流された血潮によって、自分が救われることになったと信じる人々は、キリストの血による者となりました。

一方で外国人の人びとは、ヘブライ民族・ユダヤ人とは違い、救い主をこれまで待ち望んできたわけではありませんでしたし、ヘブライ語聖書(いわゆる旧約聖書)にも触れていたわけでもありませんでした。ですから12節で「キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく」というように記されてあるわけです。外国人たちはイスラエルの民に与えられていたいわゆる「特権」とは何の関わりもなく、除外されていたのでした。しかし今やこの人びともいっしょにキリストを信じ、仰いでいる仲間となっている現実がありました。

そこでこの手紙の文面はこのように続けられます。14節以下をごらんください。

実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、 十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。

「キリストはわたしたちの平和」だというのです。キリストが平和をもたらすとか、造り出すというのではなく、キリスト自身が平和だというのです。そしてここでいう私たちとはユダヤ人だけではなく、外国人も含むすべての人々を指します。隔ての壁という言葉が出てきます。「垣根」と理解したらよいでしょう。垣根とは何でしょうか。自分の家の敷地とそうでないところに線引きをするのが垣根です。平和のキリストは、人と人との間に線引きされた垣根を壊されるのです。

先週の礼拝ではサマリアの女性の話をしましたが、ユダヤ人は自分たちが神さまに救われる聖なる民族であることを長い間信じてきました。そのしるしとして「律法」がヘブライ民族には与えられてきたのではないかと自負していました。ですから律法を持たない外国人というのは他の神々を拝んでいる人々であり、汚れた人々だと信じられてきました。そして実際にさまざまな差別や争いが行われたのです。こういう考え方はクリスチャンになって、キリストを信じて、歩みを起こしたからといってすぐに拭いきれるものではなかったと考えられます。律法を守ってきたユダヤ人のクリスチャンは「聖」であり、律法を知らない外国人は「俗」というような考え方が当時の教会にもはびこっていたことでしょう。

エフェソの教会の人々にもなお「敵意」がありました。「敵意」それはユダヤ人と外国人の間の敵意だけではない。罪を背負う人間もまた神さまに対して敵意を抱く時があります。敵意がある限り、隔ての壁は無くならないし、壊れないのです。

しかし、今やイエス・キリストというお方が来られたことによって旧約の律法は廃棄され、意味のないものになりました。律法が「敵意という隔ての壁」(垣根)になってしまっていたのです。教会からそれをどうやって取り除くのかがエフェソ教会の大きな課題でした。

けれども重ねて言いますが、イエス・キリストによって律法は無効とされたのです。律法を打ち壊したのはイエスが身をもって教えてくださり、行動で示してくださった神の〈愛〉でした。イエスは教会にやってきて集う人がユダヤ人であろうと異邦人であろうとその愛で包みこんでくださるのです。18節以下です。

それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。

「キリストによってわたしたち両方の者が」と書かれています。イエスのみ前に立つ人はだれでも新しく造りかえられた人として歩みを始めていきました。そこではユダヤ人も外国人も平等に生きていました。あえてこの手紙の中に「わたしたち両方の者」とはキリストにある自分たちは垣根が、隔ての壁がもはやなくなったのだということを表しています。「一つの霊によって」これは洗礼のことです。洗礼によって、神に近づく道が備えられたと記しています。

19節には「あなたがたはもはや」と続けられます。もはや・・・よそ者ではないのだ、拠点のない、誰かの家に一時的に身を寄せている寄留の者でもない・・・今や聖なるものとされ、神の家の一員となっているのですというのです。

最初の教会もまた過ちや失敗を繰り返しましたが、いつもそこにイエス・キリストが一つに結び合わせることを固く信じて、何か起こればこの「かなめ石」・土台にはイエスの愛に立ち戻って困難を乗り越えようと進んでいきました。その繰り返しによって強固な「神の家族」を造り上げていったのです。

かつて私は韓国の堤岩(チェアム)教会を訪問したことがあります。かつて堤岩里(チェアムリ)で起きた日本軍による虐殺事件のあらましはこうです。1919年3・1独立運動が朝鮮において起こった。この地でも国権回復の万歳運動を、積極的に展開していました。数回にわたる激烈な万歳運動が起きた後、日本軍警はその主謀人名簿を入手。4月15日午後2時ごろ、軍警30人あまりが、同教会に住民を呼び集め、すべての出入り口・窓を封鎖して、教会に放火しました。さらに教会に向かって発砲し、監禁された23人を虐殺し、また、30軒以上に放火、また遠くに逃れた6名を捕縛し、日本刀で首をはねたという、考えてみただけでも痛ましく、愚かな事件でした。私たちが訪れた当時、同教会の牧師からも、当時から語り伝えられている話を聞く機会に恵まれ、鎮魂と懺悔の祈りをささげました。礼拝堂にある事件の顛末を描いた絵画には言葉をなくすものでした。虐殺された人々の遺骸は永い間見つからなかったのですが、1982年に生存者の証言によって発見され、今は、共同で埋葬されています。また、資料館が当時、国費によって建設されていました。ここには韓国国内のみならず日本からも毎年、たくさんの人が巡礼に訪れます。私はこの愚かな行為を犯した日本に生きる一人のクリスチャンとして、懺悔と、過ちを繰り返さない教育の必要性を切に感じたことは言うまでもありませんでした。私たちはこの深い傷を乗り越えて、両国が手を携えなければならないことを痛切に感じました。しかし、今の日本では在日韓国人をはじめ外国人を排除するような真逆のことが起きています。憂慮すべきことです。

今日の聖書の言葉をもう一度心に刻みたいと思うのです。

実に、キリストはわたしたちの平和であります。・・・・・・キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。

私たちはこのイエス・キリストご自身を平和の源として、祈りをささげ、行動していきましょう。