「その水をください」ヨハネ4:1-15 中村吉基

ミカ書4:1-7;ヨハネによる福音書4:1-15

神は、私たちが思いがけないようなことをなさるお方です。神は私たちの人生に思いもよらないことをお与えになります。そして神は私たちの人生をとても豊かにしたいと願っておられます。今日の聖書の箇所は、主イエスがユダヤを去り、故郷のガリラヤに向かわれたときにサマリアを通られたという出来事から始まっていきます。

サマリアと言えばユダヤとは敵対関係にあった人々の住む場所です。紀元前700年代にアッシリアの属州となったときに外国から異民族が連れて来られました。そのときに当然その異民族の宗教ももたらされ、「偶像」に仕えた者たちだとユダヤの人たちからは忌み嫌われていたのです。サマリアを通ればおおよそ3日でガリラヤに行くことができましたが、サマリアを避けて行けば倍の日数がかかったことがわかっています。

さて、主イエスはこのサマリアをお通りになったときにひどく疲れておられました。主イエス一行がユダヤからサマリアを通ってガリラヤに行ったのは、主イエスがお疲れになっていたからでしょう。主は井戸のかたわらに腰掛けて休んでおられたのです。それは「正午ごろのこと」とありますからたいへん気温も高く、過ごしにくい時間帯でした。パレスチナでは水は貴重です。井戸だとか泉は村や町で共同管理しておりましたので、旅人が容易に使うことはできなかったのです。それは「ヤコブの泉」と呼ばれていたことがわかります。ヤコブの時代に掘られた井戸がそのように呼ばれていたのです。

そしてここに一人の女性がやってきます。当時水を汲むことは女性の仕事とされていました。けれども通常は、夕方そこに来て、一日に必要な分を汲んでいく光景がよく見られたのでした。しかし、この女性はなぜ、暑い正午ごろにやってきたのでしょうか。そこには人目を避けて出てこなければならない事情があったと思われます。そして彼女はその事情によって、家の近くの井戸は使わせてもらえなかったのではないかと思うのです。今日は特にそれを取り上げませんが、今日の箇所の次の16節からのところを読むとその諸事情は理解することができるでしょう。

7節からのところです。主イエスはこの女性に思い切って「水を飲ませてください」とお願いになりました。ところがこの女性はとても驚いてこう言うのです。「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」(9)。先ほども申しましたようにユダヤとサマリヤは敵対関係にありました。それに対して主イエスはこう仰せになります。

「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう」(10)。

もしわたしが誰なのか判っていたならば、あなたのほうがわたしに水を飲ませてくれと言うだろうに……。わたしは生きた水を持っているのだから……。「生きた水」とは何のことを指すのでしょうか。それは人間の救いを表しています。しかし主イエスが実際の水について話しているのだと誤解したこの女性はひじょうにとんちんかんな受け答えをするのです。11節です。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか」。

私たちも実はこのようなとんちんかんな受け答えをしていないでしょうか。私たちはすぐに、
「いえいえそんなはずはありません」
と神の御心、すなわち神が私たちに実現させようとしておられることを否定してしまうのです。
「まさか、そんなことが起こるはずがない」
「まさか、そんなことができるはずがない」
「いや、絶対に嘘だろう」。

創世記に登場するアブラハム(アブラム)は100歳になり、妻のサラ(サライ)が90歳の時に初めての子、イサクが与えられました。創世記18章には、それを遡る1年前に主が御自ら、アブラハムとサラに現れて、「来年の今ごろ、男の子が生まれる」と告げたのです。この夫妻はそれを信じなかったのです。その理由は、彼らはもう年老いていたからです。自分たちの経験と常識とが邪魔をして、主の言葉であっても信じることができなかったのです。

「自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに」(創18:12)とサラはひそかにあざ笑ったのです。

けれども主はそれを見ていました。サラは恐ろしくなって、「わたしは笑いませんでした」と打ち消しましたが、その時主は「いや、確かに笑った」と言われました。主が言われた通り、その翌年、夫妻に男の子が与えられます。イサクと名付けられました。イサクとは「笑い」という意味です。イサクが生まれた時にサラはこう言いました。
「神はわたしに笑いをお与えになった」(創21:6)。
イサクは人間の嘲笑と神の確かな笑いの間に誕生しました。
「主に不可能なことはあろうか」(創18:14)この言葉がすべてを物語っています。

私たちの人生はこの「まさか」の連続なのです。最初に申しました。神は私たちの人生に思いもよらない事柄をお与えになる。それを「思いがけない」ことだと受け止めるのは私たちの側のことであって、神は必然的にさまざまな事柄を起こし、さまざまな賜物を私たちにくださるのです。

こうして神は私たちの人生を豊かに、豊かにしたいと常に願っておられます。そして私たちはその豊かさの中で自由に幸せに生きることを願っておられます。しかしどうでしょう。私たちは私たちの側で神の御心を阻害してしまっているのです。福音書の中に主イエスによって、長年の病気を癒してもらう人が出てきます。ある時は亡くなった人が甦る話もあります。しかし、ここに出てくる人たち、主イエス以外の人たちは半信半疑です。今日の箇所のサマリアの女性も同じです。今、自分の目の前に救い主がいるのだとも思っていません。主イエスは水を汲む道具をお持ちでないから、水を汲むことはできない、ましてやどうやってその「生きた水」を私にくれるというのか、と勝手に判断してしまっています。

このことを私たちの問題に置き換えてみることにします。
「私はそれをやりとげるだけの力がありません」
「それをするための勉強をしていません」
「才能がありません」
「心積もりができていません」
「この病気が絶対に治るわけがありません」
「こんな状態で夢が叶うわけがありません」等などです。

誰がそんなことを決めたのでしょう。「絶対」というのは神だけが使っていい言葉です。私たちには絶対○○なんて言い切れることは一つもありません。こうして神が次に私たちに用意していてくださる扉をあえて開かない私たちです。私たちは自分が持っていない、備わっていないことばかりを嘆いています。何もしないでどうして失敗してしまうと決め付けているのでしょう。

一つの原因は、私たちが過去を捨てないからです。過去に起きたことばかりを背負いすぎているからです。「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」。これも一つのいいでしょう。主イエスはあえてサマリアの人たちにも救いを告げるためにそこにやって来られたのです。ただ偶然立ち寄っただけではありません。必然的にここに来られたのです。

私は以前、23人の牧師や神父がどうしてこの道を歩むことになったのか、という書物の編集に携わったことがあります。本ができて読み返しているときに全員に共通している一つのことを発見しました。それは小さいときから憧れの職業として牧師や神父を目指していた人は一人もいなかったということです。すべての人が人生のある時期に神に引っ張り込まれるようにしてこの道を歩み始めたということが綴られていました。

しかし、それを嘆いたり、後悔している人もまったくおられなかったのです。私も思います。牧師になるべくして多くの賜物を持って生まれてくる人などいないのではないかと……。多くの破れや弱さや小ささを感じつつ、神がそのような者も救いを伝えるためにお立てになるのではないかと信じています。

今日の聖書の言葉をふたたび味わいながら、私たちの歩みを今一度振り返りたいと願います。13節です。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」。

主が十字架に架けられた時、「渇く」という言葉を仰せになったことがこの同じヨハネ福音書の19:28に記されています。人として生きられた神であるイエスは、肉体の渇きも経験されているのです。そしてヤコブの泉という由緒ある井戸の水を飲んだとしても、また喉が渇き、それを止めることができないことを主は知っておられました。

私たちに決してできないことがあっても、神にはそれができないことはありません。私たちは主イエスを通して神に結ばれて生きている者です。私たちは、
「これは絶対にできない」
「この計画は実現できない」
「この病気は治らない」などと勝手に決め付けていないでしょうか。

どこからともなく聞こえてくる消極的な自分の内側の声に耳を傾けるのではなく、今朝神のみ声に耳を傾けましょう。今日の箇所の最後のところです。15節、「女は言った。『主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください』」。最初は主イエスがこの女性に「水を飲ませてほしい」と言ったはずでしたが、ここに来て女性のほうが主イエスに水を求めます。けれどもまだこの女性は主イエスが与えてくださる水がどのようなものか、飲み水なのか、私たちの心に力強く流れる水であるのか、わかっていなかったのではないかとも思うのです。

神は私たちにも豊かな水脈を常に用意しておられます。それに気づかない鈍感な私たちです。また過去の悪い記憶に左右されていて新しい一歩を、またそれに勇気を持って踏み出せない私たちです。たった一言、神に「その水をください」と素直に、また大胆に申し出られる私たちになりたいのです。