「神のために力を合わせる」コリントI3:1-9 中村吉基

詩編133;コリントの信徒への手紙I3章1〜9節

今日私たちは使徒パウロがコリント教会に向けて書き送った手紙に聴いています。彼はこう言いました。

「あなたがたには霊の人に対するように語ることができず」(1)

「霊の人」とは聖霊によって新しく生まれ変わった人を指しています。それだけではありません。聖霊に導かれて、生き生きと信仰生活を送っている人のことです。さまざまなクリスチャンの人たちと会話をするときによく耳にする言葉があります。
「私はまだよちよち歩きのクリスチャンだ」。「信仰について何にも知らない不勉強な者です」。そのかたは謙遜に仰っているかもしれません。でもそんなことを言わないでほしいと思います。聖霊によって新しく生まれ変わった信仰者でいてほしい。逆に言えば、新しく生まれ変わらないクリスチャンがいるだろうかとさえ思うのです。昨日洗礼を受けた人も、もう何十年と信仰生活を続けてきた人も聖霊によって絶えず新しくなることができるのです。洗礼を受けた時は、心が熱していたかもしれません。しかし、私たちは日常のさまざまなこと、「澱み」の中に身を置いて、信仰的な熱も冷めてしまったかもしれないのです。

1節には「肉の人」という言葉も出てきます。霊の人とは対峙する言葉です。「乳飲み子」は会話をすることができない。よってキリストの言葉も理解することもできないし、キリストについて信仰を告白したり、伝道することもできない人としてパウロはコリント教会の人々に接したというのです。彼はコリント教会の会員たちがまだ言葉を話せない乳飲み子であるだけでなく、まだ固い食べ物を摂ることもできない乳児であることを伝えています。それは以前そうあったように、「今でもできません」(2)と強調しています。それはどうしてなのか、なぜ信仰者として成熟できないのかという問題です。彼はその理由を「相変わらず肉の人だから」だというのです。厳しい言葉です。しかしパウロが言わなくて誰が彼らに言ったかとも思うのです。パウロはその理由として教会内に「ねたみや争いが絶えない」(3)と言っています。具体的には教会員たちが口々に「わたしはパウロにつく」(3:4;1:12)、「わたしはアポロに」(3:4;1:12)と言っている有様です。この手紙の1:12を見ると、「わたしはケファ(ペトロのこと)に」「わたしはキリストに」とあります。これらの言葉は「わたしはパウロのものだ」と訳すことができますが、思い込みの強さというか、自分を信仰へと導いてくれた人のこと、あるいは尊敬する人の名をあげているのです。

アポロはユダヤ人から改宗してクリスチャンになった人物で、聖書に詳しく雄弁で説教をしたり、信仰の手ほどきをしたりして教会に仕えていた指導者のようです。しかしそのように派閥・分派活動をしているだけなのであれば「ただの人に過ぎないのではありませんか」(4)とパウロは強い調子で記しているのです。こういう人間的な争い、言い方を変えれば、キリストが見えなくなっている状態、右に左ばかり見ていて、キリストがおられる点を仰ぐことのない状態、それはとても人間的なことなのだとパウロは言うのです。

「アポロとは何者か」「パウロとは何者か」(5)
その「人」たちは誰かというのではないのです。

「いったいアポロとは何なのか、またパウロとは何なのか、〔二人はただ〕奉仕者である〔に過ぎ〕」(青野訳)ないじゃないか。キリストへの信仰に導いた器に過ぎないのだというのです。アポロやパウロに目を奪われるうちに、まったくキリストを見ていないじゃないかというパウロの嘆きが聞こえてきます。6節をご覧ください。

「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし成長させてくださったのは神です」

彼は信仰者として育まれていくことを植物の成長に喩えています。ある神学者は「植えることは開拓伝道を、水を注ぐとはその後の継続的な牧会を意味している」(宮平望)と言っています。パウロは神の言葉の種を蒔いて宣教しました。アポロはおそらくその神の言葉を信じた人たちを教え導いて、洗礼を授けていたかもしれません。そのような指導者たちは他にもいたわけです。けれども「乳飲み子」のような新しい教会員たち、「肉の人」として人間的なことに思いを馳せる人たちをそこから引き上げて成長させてくださるのは神様お一人であると、神のわざは人間には不可能なことであるというのです。人は植物が芽を出してよりよい環境で枯れないように育てていくことはできますが、いのちのはじめも終わりも神がしてくださるのです。

春先から初夏にかけてのこのシーズンは植物が一斉に成長する季節でもあります。私の趣味はガーデニングや植物園に行ったりすることなのですが、この教会にも花や野菜を育てることが好きな方々も多くいらっしゃいます。会堂裏のグレープフルーツの木に今、花がたくさん咲いていますが、あまり大きくなりすぎて枝が牧師館の網戸を突き破りそうになりましたので、枝の剪定作業をしたところです。また来年たくさんの実がなることと思っていますが、私たちは種であっても苗であってもそこから育てていくことはできますが、でも種も苗も私たちの力と知恵では作り出すことはできないのです。品種改良ができたとしても私たちの手でいのちを作り出すことはできないのです。そういう意味では私たちは一人一人が神の器として奉仕しているのです。

主イエスがかつてこのようにおっしゃいました。短い譬え話としてマルコ4:26-29(68頁)に記されています。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、そうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速鎌を入れる。収穫の時が来たからである」。主イエスもまた成長させてくださるのか神様だというのです。決して人ではないのです。

何度もそのことをパウロは強調して手紙に記しました。

「ですから、大切なのは植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です」(7)

そして人は、神が植物を成長させているときに、その神のわざに喜んで一緒に加わることに招かれています。神のわざに私たちも参与することができるのです。

パウロは8節のところで「植えるものと水を注ぐものは一つ」だと言っています。彼もアポロも「一つ」であるというのです。この2人に「ねたみや争い」が無いということを改めて記します。ここでパウロもアポロが結ばれているのは神のわざであり、教会内で「わたしはパウロにつく」と言っていたり、いやいや、「わたしはアポロに」などと吹聴している人こそ、神様に信仰を成長させていただかなくてはならないとするのです。

終わりの9節です。

「わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです」。

先ほども申し上げましたが、私たちクリスチャンは神のわざに参与する者たちです。私たちは神が招いてくださった教会で、力を合わせて奉仕して教会を形作っているのです! この9節は今年度の年間聖句として先日の教会総会で承認され、週報の表紙やHPに掲げられています。この聖句は役員会で議論した際に口語訳聖書が訳している「神の同労者」という言葉に大切にして、年間聖句とすることになりました。私たち一人一人が神の同労者です。神のわざに招いていただいているのです。

また、教会は神が種を蒔いて、そこから出てきた芽を育てていく「畑」(9)なのです。そして神様ご自身が建て上げてくださった「建物」、神がおられる神殿です。この「建物」というのは目に見える教会堂のことを言っているのではありません。今日の箇所の数節後のところになりますが、3:16に「あなたがたは自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」とパウロが言っているように、皆さん一人一人が神の神殿なのです。皆さんは霊の人として、神の神殿として招かれているのです。

この後、これも先の教会総会で選任された役員・監事の就任式をし、この代々木上原教会はこぞって新年度に神の同労者、神の畑、神の建物としてお捧げして新しい出発をします。それにはまず私たちは「霊の人」にされることが不可欠です。いよいよ来週は聖霊降臨の祝いを共にします。聖霊の風、それは私たちが肉の人から「霊の人」へと変えられていき、神の栄光のために力を合わせて新しい船出をしたいと願っています。