エゼキエル書11:19-20;ヨハネによる福音書14:15-21
今日の箇所は、最後の晩餐の席上で弟子たちに向けてなされた主イエスの「告別説教」と呼ばれるところです。この箇所の中心にあるのは「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」(18節)という主イエスの力強い約束です。この言葉を中心にして、16-17節に「聖霊」の約束があり、19-20節には「イエスが共にいる」という約束があります。
「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」と今日の箇所は始まります。主イエスの掟とはいったい何でしょうか。それは主イエスの弟子たちがお互いに愛し合うことでした。主イエスの思いは神の思いでもあります。主イエスが神に頼むことによってそれは聞き入れられるというのです。復活されたイエスはまもなく弟子たちのもとから去ろうとしています。そこに「別の弁護者」が遣わされるというのです。以前の口語訳聖書では、「助け主」と訳されていました。これは聖霊のことを言い換えてこう言っています。「弁護者」とはご存知のように法廷用語です。この箇所の本来の意味は「助け主」に近いかもしれません。「そばに」「傍らに」「呼び寄せる」というような意味です。裁判になると自分一人ではそれを為すことができません。弁護者を必要とします。弁護者は私たちを助けてくれる存在です。ずっと寄り添って親身になってくれる存在でもあります。
主イエスに代わり、聖霊は私たちを招いて、いつまでも一緒にいてくださる存在です。「別の」弁護者。「もう一人の助け主」(宮平望)と言われていることは、主イエスご自身が最初の弁護者として、一人目の助け主として遣わされたことを意味しています。旧約の時代には神が人々と共にいてくださり、やがて主イエスが、そしてこれから先は聖霊が人々の傍らにいてくださるのです。
今日の箇所には「みなしご」という言葉が出てきます。
18節で主イエスはこう言います。「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。」
「みなしご」。保護者のいない子どもをそう呼びます。今この時も戦争において両親を亡くし、孤児となった子どもたちがたくさんいます。つい先週の報道でもパレスチナのガザで、イスラエル軍の空爆で殺された母親の胎内から救出された赤ちゃんがいたそうですが、その赤ちゃんも後から亡くなってしまったということです。13歳の少年は、やはり空爆で母親を亡くし、父親は未だ行方不明だそうです。
主イエスの時代も同じ有様でした。自分自身を導いてくれる人、守ってくれる人、養ってくれる人、信頼できる人、そのような存在がいないという状態です。今お話ししたように戦闘の続く地域、紛争などによって幼い子どもが両親を亡くすということは決して珍しいことではありません。また避難したり、亡命する途中に親や家族と生き別れになるというケースもあります。主イエスの時代にもローマ帝国の侵略を受けていた時代でしたから、おそらく親を失った子どもが路頭に迷い出ていたのだろうと推測されます。頼みの綱である親を失って子どもたちはどのように生きていくのでしょうか。この時主イエスは、「みなしご」という表現をして、主イエスがいなくては生きていけなかった弟子たちの根本的な弱さを指摘したのでした。弟子たちはすべてにおいて主イエスを頼りにして、主イエスに支えていただいていました。主イエスが一緒にいてくれたからこそ律法学者や祭司たちの批判にも耐えてこられたのです。まったく性格も育ってきた環境も違う弟子たちはには、さまざまなことが起こったでしょうが、一つとなって前に進んで来られたのもいつも主イエスはその真ん中に立っておられたからです。
この最後の晩餐のあとに主イエスが捕らえられると、散り散りにいろんなところへと弟子たちは逃げていってしまいます。中にはイエスのことなど知らないという者さえもいました。弟子たちは主イエスに一生をかけていましたから、本来の目標や希望、そしていつも一緒にいてくださったお方を失って本来の弱さをさらけ出したと言えます。
主イエスはそんな弟子たちをよく理解していました。そんな弟子たちでしたけれど、主イエスは「だらしがない」とか「情けない」とは思わなかったのです。そこで主イエスは自分に代わって新しい希望を与えます。それが16節で「弁護者」と呼ばれる助け手です。弁護者とは力のない人、弱い人、小さくされた人に代わって働いてくださるいわゆる「助っ人」です。もっと一般的には、「一緒にいて支えとなってくださる方」と言ったらよいでしょうか。
主イエスはこう言われました。「あなたがたをみなしごにはしておかない」。力強い言葉です。確かな約束です。何も子どもたちだけではありません。師(先生)のいない弟子たちも同じです。その主イエスは、「あなたがたのところに戻って来る」と約束してくださいました。
このことが語られたのは、主イエスが十字架につけられる前のことでした。「別の弁護者」は主の復活の後、イエスが天に帰られたのち、聖霊が降る時にやってきます。この聖霊によって弟子たちは主イエスが「今、ここ」にいてくださることを実感できる。聖霊が主イエスを思い起こさせてくださるのです。それはもうあと少しのことだというのです。
19節にある「しばらくすると」という言葉がそれを示しています。主イエスが十字架につけられて、神のもとに帰られるまでのことです。
しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。(19節)
この世は、主イエスを十字架につけることによって、主を棄て去りました。この世ではイエスを見ることができなくなるけれども、弟子たちは聖霊に導かれて、さまざまな場面で主に出会っています。使徒言行録の7:55ではステファノが殉教する前に「聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見つめ」とあります。また同じ使徒言行録9章ではキリスト教徒たちを迫害するサウロ(パウロ)主イエスの声を聴き、回心に導かれるということが伝えられています。
続く20節で主イエスは「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる」とお語りになりました。けれどもこの時の弟子たちには、この主イエスの仰ることの真意がうまく伝わっていなかったのではないかと私は思います。でもそれがまもなく理解できる日が訪れたのです。それが聖霊降臨――ペンテコステの出来事でした。神とイエスがそれぞれに深くつながっている。もっと掘り下げていうならば神の内側にイエスが、イエスの内側に神が、そして弟子たちの内側にイエスが生きておられるということです。聖霊が降臨する朝、聖霊によってイエスの言葉や行いを思い起こさせ、さらに「霊が語らせるままに、他の国々の言葉で話し出した」(使徒2:4)弟子たちは主イエスがおっしゃっていたことがようやくそこで実感できたのではないかと思うのです。
21節です。「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す」。
主イエスの「掟を受け入れ、それを守る人」とは、主の福音の教えを心に思い描くだけではなく、行動に表していくということです。それは今日の箇所の最初の15節にあるように、主イエスを愛する人は掟を守る人、掟を守る人とは、主イエスを愛する人だというのです。そのような人は神にも愛される人であり、主イエスもその人にご自身を現すことによって愛を示していかれるのです。
先ほど「みなしご」というのは「この私を導いてくれる人、守ってくれる人、養ってくれる人、信頼できる人、そのような存在がいないという状態」だとお話ししました。しかし私たちの現実に、たとえ両親がいても、兄弟がいても、帰るところがあっても、そこに安らぎを得られなければ、それは「みなしご」と同じではないかと思うのです。主イエスはそんな一人をも喜んで招いてくださいます。
今日私たちは、この時の弟子たちと同じように、主の晩餐に招かれます。私たちの手のひらにパンと杯の形を取って来てくださる、主イエスを心から歓迎したいと思うのです。そして、聖霊を歓迎したいと思うのです!
「あなたがたをみなしごにはしておかない」。