「良くなりたいか」ヨハネ5:1−18 中村吉基

ヨブ記23:1−10;ヨハネによる福音書5:1−18

日本基督教団の定めた「主日聖書日課」から毎週の礼拝において聖書の言葉に聴いています。毎週の礼拝にはテーマが付けられていまして、今日のところは「いやすキリスト」。一瞬「イエス・キリスト」をもじったギャグではないかと思いましたが、ヨハネによる福音書5章1−18節には病人の癒しの問題と、安息日の問題が記されています。今日は特に礼拝テーマにしたがって前半の主イエスによるいやしの記事に聴いてみたいと思います。

今日の箇所の登場人物(名前は判りません)は38年もの間、病気で苦しんでいたエルサレムの人の話です。この病人はベトザタ(恵みの家)と呼ばれる池のかたわらに横たわっていたのです。この池は祭りの参加者たちが羊の門をくぐり、身を清めて神殿に入っていったものと思われます。そこに大勢の病人がいましたが、神殿に向かう参拝客たちから施しをされることを期待していました。また、この池の水が動いた時(間欠泉のようなものでしょうか)に真っ先に池に入るといかなる病気で苦しんでいても癒されるという言い伝えがあり、大勢の病人がそこにいましたが、この病人は池に入るチャンスはありませんでした。なぜでしょうか。そこに癒やされたいと集まっていた中にも弱肉強食というか、まだ元気のある病人から走りだし、力のない者はますます弱くなり、そしてその場から一歩も動けなくなっていたのです。

ある日のこと、主イエスがその病人の横を通り過ぎました。祭りに参加するために主もエルサレムに来られました。そして長い間、横たわっていたこの病人をご覧になりました。また、この病人が癒されずに38年もが過ぎたことを知られて、

「良くなりたいか」(6節)

とお尋ねになったのです。本人からすればずっと池に入る機会を待っていたわけですから、当然良くなりたいと言うだろうと私たちは思わないでしょうか。しかし7節にありますように「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの病人が先に降りて行くのです。」と言って、池に入ることのできなかった悔しさ、嘆きを訴え始めて、肝心の「良くなりたいかどうか」ということには言及しないのです。何かぐずぐずしているような感じにも受け取れます。思ってみればこの病人は38年もの間、何をしていたのでしょうか。何もできなかったのでしょうか。もしかしたらこの病人も最初のうちは一生懸命に池を目指して走っていたのかもしれません。「今度こそは!」「今度こそは!」と自分が癒やされることを願ってがむしゃらになっていたかもしれません。でも何度やっても一番最初に池に入れないし、何度もやっていくうちに自分の力だけではどうにもできない。誰かの助けを求めようとしたかもしれません。みんな「自分が」「自分だけが」となっていて他人のことなどには脇目もふらない状態になっていたのかもしれません。皆さんだったらどうでしょう。こうなったら「自分が良くなるわけなどない」と諦めの境地に達するかもしれません。

でも主イエスはこの時、この病人に何と仰せになったのでしょうか。

「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」(8節)

この日は安息日でしたから一切の労働を休まねばなりません。主イエスのこの奇跡行為もまた労働とみなされて、このあとちょっとした問題になっていきます。私はここを読むときに、安息日だろうが、平日だろうが、「すぐに」起き上がって行きなさい、と主イエスが言われたのだと理解しています。主イエスはこの時、決して「かわいそう、かわいそう」と「憐れみ一辺倒」でこの病人に接しませんでした。「ああ、本当にかわいそうですね。たいへんでしたね。どうして池に入れなかったのでしょうね」とは言われませんでした。「あなたが良くなりたいと本当に心底から思っているならば、寝たきりの状態から訣別したいと願うならば、あるいは社会の周辺に爪はじきにされてしまっている現状から解放されたいと望むならば、起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」と主イエスは言われました。この病人は正直に言われたとおりにすると、すぐに良くなって、床を担いで歩き出したのです。7節で「病人」といわれていたのに、9節では「その人」となっています。もう病人ではなくなった、主イエスの御力で癒されたのです。

しかし、「その人」が癒されて、歩いたのは、ユダヤ人たちの安息日のことでした。全ての労働を休間なくてはならない安息日に主イエスはいやしのわざをしました。いやされたその人が神殿の方に向かった時に、ユダヤ人たちに非難されます。たとえ寝床といってもそれを担いで歩くということは律法に違反するという理由からです。「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と証言するのでした(11節)。けれども13節にはまだ自分の病を癒したのが主イエスであることは知らなかったとあります。イエスがその場を立ち去られていたからです。彼にとっては、「床を担いで歩きなさい」という言葉そのものが彼のいやしにつながったと身をもって感じていたのでしょう。14節をご覧ください。

その後、イエスは神殿の境内でこの人に出会って言われた。「あなたは良くなったのだ。もう罪を犯してはいけない、さもないともっと悪いことが起こるかもしれない」。

病気の原因を罪と結びつけるのは当時の常識だったようです。彼は病をいやしていただいたことへの感謝を表すため、神殿に向かったのでしょう。そこで主イエスとの再会を果たすのです。

この人の良いところは人間の力には限界があることを知っていたことです。7節の「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです」という主イエスへの訴えは自分自身の弱さ、もう自分での力ではどうにもならないことを告白しています。

この2000年前の物語を、私たちの現実に当てはめてみましょう。私たちもまた今いる場所から一歩を歩き出すことができないでいるのではないでしょうか。今、皆さんが重大な病気でなくとも、精神的に何かに縛られていないでしょうか。気持ちの整理がつかない…誰かを恨み続けている…過去の自分の失敗に囚われているなどなど、それによって皆さんが本来もっている良さとか、才能とか、優しい気持ちなどが隠れてしまって発揮できていないということはないでしょうか。池のかたわらにいた病人のように諦め、投げやり、あるいは人のせいにして自分自身を放置していないでしょうか。

私は30代で神学校に入りましたが、実は10代で召命を受けて、神学校に入学を希望したものの門は開かれませんでした。同年代の友人が20代早々から牧師になっていくのを見て、自分はベトザタの池の隅に横たわっている病人のようだと思っていました。何度もチャンスはありましたが、自分からそれを遠ざけていったのかもしれません。20代の10年間はあっという間に過ぎ、自分を「再献身」するように神から促されるような体験がありました。命が危うくなる病に罹ったのです。そして遅ればせながら(でもそれは神から与えられた「時」であったのでしょう)、神学校に入学をすることになりました。今思うと「起き上がり、歩きなさい」と主イエスに呼びかけられた経験でした。

私たちが心も身体も健やかに生きたいと願うならば、はつらつと与えられたいのちを輝かせて自分の足で歩かねばなりません。なぜならもう私たちは横たわっていることはないのです。自分を卑下して、後ろ向きでいる必要はないのです。言い訳をしたり、人のせいにして自己保身することを捨てましょう。

私たちはつらい目にあっていても、それだけが私たちの人生ではありません。いつまでもそこに横たわることを今日からやめてみることにしませんか。私たちの人生は人間の身体の新陳代謝と一緒で、古いものを出さないことには新しいものは生かされてこないのです。しかし私たちはすぐに後ろを振り返ってしまう習性があります。ようやく元気になろうかという時に、また自分で傷をえぐってしまうのです。それを繰り返していれば、私たちは38年横たわっていた病人と同じなのです。もう私たちは過去に戻って、それを変えることはできません。私たちは決心しなければいけません。池のほとりで38年、横たわっているのか。さっそうと起ち上がって前へ進むのか。いつまでも暗い記憶に支配されるのか、神が与えてくださる新しい扉を信じて生きていくのか、私たちは今、選択を迫られています。

今日神は、主イエスの言葉を通して私たちに問われています。

それは「良くなりたいか」という一言です。

皆さん一人ひとりに主イエスは問われています。

もし、私たちは今より良くなって、起き上がって歩み出したいのならば、私たちを横たえているものを捨て、解放されなければなりません。それは一人ひとりが違うものを抱えていることでしょう。過去の苦しい記憶を捨てる、赦せなかった病人を赦す、病人のせいにしていたことを自分の問題と考える、一つひとつの縛りから解放される時、私たちは心も身体も癒されて、今までマイナスだと思っていたこともプラスに転じていくことでしょう。

私たちの人生にベトザダの池は必要ありません。ここに座っていても何も生まれてきませんし、得るものもありません。私たちの人生に必要なのは主イエスと共に生きることです。ここから私たちは力を得ていきますし、人生が変えられるのです。38年も池の片隅に横たわっていた人も主イエスによって瞬時に新しい人生のスタートを切りました。私たちも「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」。この主イエスのみ言葉を心に刻んで私たちも歩み出しましょう。