マラキ書3:19-24;ヨハネによる福音書1:19-28
今日私たちは待降節第3主日を迎えました。
「喜びの日曜日」と呼ばれる主の日です。教会のクランツには、3本目のろうそく、それも「喜び」を表す薔薇色のろうそくを飾ります。いよいよクリスマスが近づいてきた喜びを表現するものです。
さて、聖書には、主イエスの誕生の月日は記されていません。正確な誕生日というものがわからないのです。そしてこれもまた驚くことですが、古代教会では4世紀からクリスマスが祝われるようになりました。教会の最初期には、主イエスの十字架と復活を記念するところから礼拝の歴史が刻まれていくことになりました。その後4世紀になってようやくキリストの降誕を祝うクリスマスが始まりました。その当時のローマでは太陽の神を礼拝するミトラス教という宗教が大流行していました。そのミトラス教ではローマの暦で冬至に当たる12月25日を「不滅の太陽の誕生日」としていましたが、キリスト教会では「キリストこそまことの正義の太陽」だとして、12月25日を主の降誕の日として祝うようになりました。
その一つの手がかりは、今日最初に読みました「マラキ書」に記されてあることです。預言者マラキが伝えた「その日」(マラキ3:19,20)という言葉には主イエスが到来するという意味が含まれています。マラキはその日には何かの変化が起こるというのです。そしてすでにもう地は動き出しているのだというのです。彼はこの地上に激しい火が投げ込まれると告げます。しかし3章20節にある「義の太陽」がこの地上の全てを癒すというのです。信仰者はこの義の太陽こそ神が送られる救い主メシアだと信じていました。そして最初のキリスト者たちはこの義の太陽こそ、イエス・キリストだと信じ、重ね合わせて見ていたのです。
当時のユダヤはローマ帝国の支配下に置かれて、権力者による支配が続いていました。重税にあるいは差別に虐げられ、苦しめられ、人を人とも思わない扱いをされ、「いつかメシアが私たちを救ってくださる」という信仰が強くなっていったのもうなずけるような時代でした。そこに神の使者ヨハネが現れます。神さまはヨハネの口を通して平和のメッセージを伝えたのです。ヨハネは荒れ野で神の言葉を受け、ヨルダン川で人々が神に立ち返るよう洗礼運動を始めました。
今日は交互に2つの箇所を読ませていただきますが、マラキ書3章23節では預言者「エリヤ」の名前が出てきます。預言者マラキは「主の日」が到来する前に、神から預言者エリヤが遣わされることを告げていました。
そしてヨハネ1章19節のところにエルサレムのユダヤ人たちが遣わしたファリサイ派に属する人が登場します。この人たちは洗礼者ヨハネに「あなたは、どなたですか」と尋ねます。今日のメッセージのテーマは、「ヨハネは一体誰か?」ということにあります。主イエスがお生まれになった時代、人々はいつか神が私たちを救ってくださるであろう、というメシアの到来、新しい指導者の出現を待ち望んでいました。人々はおそらく一縷の望みをかけてヨハネに近づいて来たのでしょう。
続くヨハネによる福音書1章21節を見てみます。「彼らがまた、『では何ですか。あなたはエリヤですか』」とヨハネに訊ねている場面があるのです。ヨハネは「違う」と答え、「更に、『あなたはあの預言者なのですか』と尋ねると、「そうではない」と答えた」と記されています。かなりの期待を持ってやってきた彼らに、ヨハネは自分は「メシア」でもなく、「エリヤ」でもなく、そして「あの預言者」でもないと強く否定します。
こうして人々の期待を裏切ってしまうヨハネでしたが、ちなみに「メシア」と言うのは油を注がれた者という意味で「キリスト」と同義語です。神が人々のためにお遣わしになった救い主です。また、「エリヤ」は旧紀元前9世紀の北イスラエル王国で活躍をした預言者です。偶像崇拝に陥った人々を正しい道へと連れ戻した行動の人です。
列王記下1章8節にはこのエリヤが毛衣を着て、腰に革帯を締めていたと記されています。マルコによる福音書の1章6節には同じような格好をしていた洗礼者ヨハネの姿が記されています。彼の風貌は、預言者エリヤを彷彿とさせたのでしょう。余談ですが、ヨハネの方には「らくだの毛衣」とあります。らくだの毛衣はそんなに高価なものではなかったようです。しかし皆さんは、東方の学者たちがらくだに乗って主イエスを探し求めることをご存知だと思いますが、旧約聖書によれば尊い贈り物を運んでくるとされた動物であったようですので、ヨハネもまたキリストの先駆者として尊いものを携えていた人物であったと言えるかもしれません。
そして「あの預言者」とは名前が明らかになっていませんが、かつてエジプトの奴隷の身分となっていたヘブライ人たちを救い出したモーセを意味していたと考えられますし、またモーセに向かって神が後の時代になって彼のような預言者を立てると約束された預言者と考えられています(参考;申18:15)。いずれにしても貧しさと圧政に苦しめられていた人々は、救い主の到来を心待ちにしていたのです。
しかしその期待とは裏腹に洗礼者ヨハネは救い主ではありませんでした。そして人々は言います。22節です。
そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」
ヨハネは救い主でもない、預言者エリヤでもない。この箇所でヨハネは自分が何者であるかをはっきりと開示しないことは先ほど見てきた通りです。
彼はただ一言こう言いました。「わたしは荒れ野で叫ぶ声」だと。声にすぎない者だというのです。
けれどもこのヨハネの言葉はイザヤ書40章3節の引用とされています。私たちの聖書でイザヤ書を開けてみるとすぐにわかることですが、
「呼びかける声がある。主のために荒れ野に道を備え
わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。」
とあります。
つまりヨハネによる福音書を記した人たちは、洗礼者ヨハネ自身が「荒れ野で叫ぶ声」そのものだとするのです。イザヤ書の記述とはニュアンスが違ってくるのです。
「荒れ野」とは旧約の時代では人々の罪によって荒廃した土地を意味しました。また人々は神のことなど忘れ、神を失った土地でした。人間の欲望と自己中心的な思いとが、渦巻いた土地でした。殺人が起きます。不当な搾取が行われ人々は嘆き悲しんでいます。大きな国が小さな国を侵略して人々は暮らすどころか行く宛てもありません。
しかし、そのような神なき時代にヨハネは声を上げました。
26節です。
「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」
「わたしの後から来られる方」すなわち救い主イエス・キリストのことを表しています。今日の箇所の前の段落のヨハネ1章6-8節までに目を向けると、ヨハネは「光について証しをするため」に来た。とあります。この光ももちろん主イエスのことです。ヨハネが光なのではなく、光の源であるキリストについて証しするために神から遣わされた証し人だと名乗るのです。
私たちもまた、この現代においてヨハネと同じ使命を神から頂いているといえます。それは私たちの周りにいる、悲しんでいる人や苦しんでいる人、病気の人、失意にある人、希望をなくしていたり、救いを求めている人に「光」であるキリストを伝え、神の愛を私たちの心と身体を通して示していくことです。まさにこのことこそが私たちの〈喜び〉へと変えられていくのです。
街はすでに11月に入った頃から街頭やデパートの装飾などがクリスマスの様相を呈していました。街は確かに華やかです。人々がクリスマスに目をそらすどころか関心を寄せてくれればそれも悪いことではないと思います。しかし、クリスマスを祝う本当の意味は神が主イエスを救い主としてお遣わしになったことです。ここに本当の喜びがあります。ですから、一人ひとりの力で本当のクリスマスを一人でも多くの人に知ってもらうために、皆さんが「光を証し」してほしいのです。神はすべての人にまことの喜びをくださいました。この喜びを私たちも洗礼者ヨハネに倣って他者に伝えていきましょう。その証し人としての役目を私たちが与えられていることを今日の聖書は教えています。それを実現するためにまず、皆さんの最も近くにいる人々に愛を持って接し、心を開いて誠実にその人の声に耳を傾けましょう。そのことによって、私たちの内面にも主イエスが生まれてくださり、宿ってくださって、喜びと希望が胎動していることを感じるのです。